日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

69歳のいまでも「なぜ、社会がこうなっているのか」がわからない。世間の本音やほんとうのことが知りたい。ネットは玉石混交だけれど、検索して調べてみます。訪問していただいて感謝しています。ありがとう。m(__)m

『経済で読み解く織田信長』まとめ2

 おはようございます。

 三時頃、雨が降り出しました。いまはちょうど止んでいるようなので、ラジオ体操に行ってみます。途中で降りだしたら帰って来ます。雨が降っている以外はラジオ体操に出かけているので、もう、習慣になっています。

「習慣は運命を作る」だったっけ……

 

 検索すると……

「心が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば運命が変わる」

          ――ウィリアム・ジェイムズの言葉

 

 として出てくる。

 まず、心。見方を変えることだ。

 

 

 

 

 

         …………      …………      ………… 

 

 

 第三部からまとめます。

経済で読み解く織田信長 「貨幣量」の変化から宗教と戦争の関係を考察する

経済で読み解く織田信長 「貨幣量」の変化から宗教と戦争の関係を考察する

 

目次(章のタイトルだけ)

序に代えて ~お金の流れで「歴史」を読み解く

第一部 中世の「金融政策」と「景気」

 1章 明の景気が日本経済を左右した時代

 2章 室町幕府の財政事情

第二部 寺社勢力とは何なのか?

 3章 老舗「比叡山」VS新興「京都五山

 4章 京都五山のビジネスと本願寺の苦難

第三部 武将と僧侶の仁義なき戦い

 5章 信長の先駆者たち

 6章 「一向一揆」とは何か

第四部 信長は何を変えたのか?

 7章 信長の本当の業績

 8章 信長の活躍が日本を救った!

あとがき 

…………       …………      …………      ………… 

 

 第三部

5章 (室町幕府の混乱……)

室町幕府の将軍

 3代 義満

 4代 義持

 5代 義景(2年で死去)

 4代 義持(大御所から返り咲き、3年後腫れもので死ぬ) 

 6代 義教

 

 義持の死後、跡目相続争いが起きます。義満は政略のため自分の子を比叡山に二人、高野山に一人、五山に一人と預けていたので、その四人でのくじ引きが行われ義教が当選しました。

 

……寺社勢力が強かった時代です……

強訴 - Wikipedia

 

 1433年に比叡山から「12か条の強訴」が行われたのをきっかけに、義教は比叡山を焼き討ちします。比叡山の利権は「関所」「金融」「荘園」でしたが、幕府によって金融と荘園を制限され財政難に陥っていました。――比叡山に味方する守護大名も徹底弾圧されました。

 

 反乱や、だまし討ちが当たり前の時代です。

  • 義教は「嘉吉の変」(1441年)によって赤松氏に殺されます。
  • 管領細川持之らは9歳の義勝を7代将軍にしますが、8カ月で病死します。
  • 8代将軍には8歳の義政が就任します。元服は1456年。
  • 義政と妻の日野富子は子供が生まれないと諦めていて、義視を養子としていたのですが……偶然、子供ができたのです。それが義尚です。富子は実の子供を将軍にしたい。義視は成人していたので管領細川勝元を担ぎ出して対抗します。この跡目争いが原因となって、応仁の乱が起こります。

応仁の乱 - Wikipedia 

  • この11年間の戦いで京都の町は荒廃します。
  • 勝ち組は細川氏大内氏管領細川体制が確立します。
  • 五山、公家、朝廷の荘園経営は「守護請」に変わっていく。地方の代官が荘園を横領することが増えます。

 P167には「将軍家の抵抗と管領家の報復」という項があり、応仁の乱後の将軍と管領細川政元の戦いが描かれます。細川は11代将軍に義澄を就任させました(1493年)。ここから義材の将軍復帰への流浪の旅が始まります。

 

  • 応仁の乱後は、比叡山も幕府も衰退しました。
  • 明応の政変」によって戦国時代が始まったといえます。
  • 細川政元は暗殺されます。
  • 各地の武将が闘い、反乱やクーデターが繰り返されました。

 

6章 一向一揆

本願寺の歴史――

  • 1468年、比叡山の攻撃で堅田の拠点を失う。
  • 1471年、北陸吉崎に本拠地を移す。
  • 本願寺がした町づくりは「寺内町」という。
  • これは新しいビジネスモデルでした。宗教を基点に集まった人たちのニーズに応え、それが商売となりました。
  • 蓮如細川政元に庇護を願い、お互いに手を結びました。細川は一向宗が地方大名と戦い、勝ったことを無視できなかったのです。「加賀の一向一揆」 です。

nihonsi-jiten.com

 

  一向一揆は大衆運動としての側面もあります。また新しいビジネスモデルでもありました。

 

 応仁の乱後、もうひとつ伸長した勢力があります。京都の商工業者(町衆)に広まった日蓮宗です。町衆は自ら武装し、街区をゲートとバリケードによって防衛しました。日蓮宗はこういう治安活動を通じて軍事能力を高めていきました。――P208

 

  法華衆は京都を外敵から守っていました。一向一揆とも境界線で何度も戦いました。1532年には山科本願寺を3万人で包囲し放火して焼き尽くしました。以後、一向一揆の本拠地は大阪石山本願寺になったのです。

 1533年、堺の町は一向一揆に襲撃されました。一向一揆は、町の外部から侵入し、征服する軍事の性格も持っていました。

 

 それを見てもわかるように、寺社は経済の基盤を持つだけでなく軍事的な勢力でした。

 幕府の権力が及ぶのは近畿圏内だけで、ほとんど有名無実の存在になっていました。武将が群雄割拠し暴力の応酬が行われていた時代でした。

 

 

第四部

7章 信長の業績

 尾張を統一し、「桶狭間の戦い」で勝った信長は「天下統一」という新しいビジョンを持った者として歴史に登場します。 

sengoku-his.com

 

 

 P225には「信長の業績」といわれるものが挙げられています。歴史家の谷口克広さんの評価も載っています。

  1. 検地を行い所有関係を整理した  →  不十分
  2. 武士を城下町に集めて兵農分離を推進 → かなり進めたが不徹底
  3. 座の特権廃止、楽市楽座を推進 → 現状維持、座を利用
  4. 関所を廃止、道路、橋などの交通網整備 → その功績は大きい
  5. 堺などの自治都市を掌握して統制下に置いた → 現状維持、利用した
  6. 撰銭令によって貨幣の流通を円滑にした → 中途半端
  7. 国内の不要な城を破壊、国衆の軍事力削減 → 事実
  8. 一向一揆壊滅、宗教勢力を統制下に → 攻撃はしたが統制はしていない

 

 流布されている信長のイメージと違うようです。

  • 信長は創業者タイプだったとわかります。現状を維持しつつ、少しずつチューニング(改革)していく。
  • 特に巨大な力を持っていた寺社勢力から経済の主導権を奪い返したことで新しい時代を作りました。

 

 P233~では「『天下人』三好長慶の最後と信長の台頭」という項を設けて、歴史的な推移を描いています。

 

 P237~の「信長の政策を整理する」では、信長の慎重な面が描かれています。

 ここでも「創業者」としての信長の、組織運営術を解説します。部下をどのポジションに置いたらよい結果がでるか、を考えていたと考察しています。

 

 P244には「信長の『行動原理』」が書かれます。

  • 役に立つものは積極的に活用
  • 役に立たないものは捨てる
  • 敵対するものは完全殲滅

 非常に合理的なのです。

  • 自分が力不足でいまできないことは、チャンスが来るまで待つ。
  • 同じ過ちを繰り返さない。

 

 信長はリスクとリターンを計算して行動しました。

 

8章 信長が日本を救った!

宗教弾圧といわれていることについて――

  • 信長は宗教を弾圧したのではない。攻撃は、政治的、軍事的に敵対する場合だけに限られていた。
  • 日蓮宗原理主義的で過激だった。それで、1579年に起こった「安土宗論」という事件をきっかけに「他宗を批判」できないように約束させた。
  • 比叡山本願寺を焼き討ちしたのも、過激な僧兵の行動を止めるためだった。

 

金融政策について――

 支那では銅山は掘りつくされていたので銅銭は作られず、私鋳銭が出回っていた。それが日本に持ち込まれ「鐚銭(びたせん)」といわれた。「びた一文払いません」の「びた」です。これは銅の含有量が減っているので欠けたり割れたりした。これでは、同じレートで通用させることはできない。

 それで「鐚銭」のレートを低くする「撰銭令」が盛んに出された。信長も出しています。

 まだ経済法則が知られていない時代だったので、「撰銭令」の効果はなく、経済政策としては失敗でした。レートを低くするだけだと全体の貨幣量が減るという結果になってしまうので、デフレが進行するのです。

 

 信長は独自通貨の発行も考えていたようです。

 

土地政策――

  • 太閤検地に比べれば中途半端といえます。ただ、これによって諸侯が分立するのではなく、中央集権的な体制を作ることを目指していたようです。

 

経済の改革――

  • 関所の廃止は流通に革命をもたらしました。軍事的な補給を意図していたと思われるのですが、思わぬ結果となりました。
  • 城下町を作ることで経済的な発展を促しました。これは本願寺のビジネスモデルをパクったものといえます。
  • インフラを寺社勢力だけのものにせず、開放しました。これによって経済発展の基礎が作られました。

 

 

           *            *

 

本を読んだ感想

 信長が戦国時代のなかで「新しいビジョンを持った者として現れた」ということがわかりました。

 信長は「天下布武」の半ばで倒れたわけですが、経済の新しい面を拓こうと試みました。それは後の経済発展につながりました。

 室町から戦国、そして江戸へと移っていくこの時代は、力と欲と飢餓の混乱した時代です。幕府が安定していなかったものですから……

 そういうことを知ると、政治の大切さがわかります。

 政治が安定して平和であってほしい、というのが、いつも庶民の願いなのです。

 

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       リンクを貼らせていただいたサイトの方にお礼申し上げます

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   読んでいただいて、ありがとうございました。

   すべて穏やかで、誰もが幸せでありますように。