日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

社会の底辺で生きてきて68歳になりました。後悔ばかりの人生でしたが、それもしかたがないことです。〈初期仏教〉を信じているので、なんとか暮らしています。訪問していただいて感謝しています。ありがとう。<m(__)m>

『宮沢賢治と法華経について』

 おはようございます。

 台風21号はアパートの屋根瓦を吹き飛ばし路地や駐車場に落としました。モルタルの壁も剥がれ落ちました。昨日はその片付けと掃除に半日かかりました。自転車置き場の屋根も入り口も吹き飛んだので骨組みしか残っていません。

 ぼくの部屋は北向きなので被害はなかったですが、南向きの窓の部屋はガラスが割れたり、雨漏りでたいへんです。古いアパートで人も入ってこないので、大家さんは修理する気がないでしょうね。どうするのでしょうか。

 路地にはがれきを集めて置いています。アパートの玄関前にもがれきを集めて置きました。この古いアパートが立ち並んだ区域はけっこう被害が出たようです。アパートが揺れるほどの大風でしたから。

 

  

 

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  著者は2006年に亡くなられたようです。

 著者を偲ぶサイトへのリンクを貼らせていただきます。ご冥福をお祈りします。m(__)m

宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について

宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について

 

目次

序章 

 宮沢賢治思想の中核を探る 法華経はどんなお経か

1章 幼少・青年時代(~大正9年)

 浄土真宗に育まれた 模索の時代 法華経との遭遇 廃仏毀釈の嵐と仏教

 なぜ国柱会か 宮沢賢治国柱会入会

2章 上京中(大正10年)の賢治

 家出上京 上京中の生活 上京中の生活(続) 上京中の法華経の布教活動

 父の来訪と上方旅行

3章 農学校教師時代

 花巻へ帰宅し稗貫農学校教諭となる 農学校教師時代 同僚たちと法華経

 妹トシの死と法華経 「法華堂建立勧進文」について

 花巻教会所の創立から身照寺へ

4章 「雨ニモマケズ手帳」から臨終まで

 「雨ニモマケズ手帳」について 「雨ニモマケズ手帳」と法華経

 埋経について 常不軽菩薩か観世音菩薩か 「雨ニモマケズ手帳」に見る闘病生活

 臨終の年、昭和八年 臨終前後、九月十七日から二十一日迄

 

芸術としての人生――あとがきに代えて 牧野立雄

 

 
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  時系列に沿って書かれてあり、宮澤賢治法華経との関わりを解説したものです。具体的な行動や事件を語りながら描かれているので読みやすいです。

 

 1章は賢治が法華経に出会った頃

 2章は家出した上京中の生活

 3章は農学校教師の時代の信仰の様子

 4章は「雨ニモマケズ手帳」に書かれた内容

 

 賢治はずっと法華経を信仰していたのですが、それぞれの時代、どのように過ごしていたか、が描かれます。

 

 
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浄土真宗に育まれた

 宮澤賢治浄土真宗の信仰に篤い家に生まれました。

 伯母ヤギ(父の姉で一度嫁したが不縁になり実家に戻っていた。後、再婚する)に幼いころから「正信偈」や「白骨のお文章」を聞かせられて育ちました。

 父は花巻の仏教会を作り、毎年、仏教講習会を開くほど熱心で開明的でした。賢治は中学4年生の16歳の時、父宛の手紙に「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と書くほど真宗に親しんでいたのです。

 また幅広く、キリスト教禅宗などの知識も得ようとするほどでした。

 

 賢治が法華経に転換する時期が、この本では推察されています。島地大等の「漢和対照 妙法蓮華経」を読んだことがきっかけだったのですが、この本は大正3年(1914年)10月10~11日のあいだに高橋勘太郎から父の宮沢政次郎に贈られたものだったからです。

 ですから賢治は家にあった「妙法蓮華経」を大正7年(1918年)頃、読んだことになります。

 

 賢治は、「人はすべて仏となることが出来る。穢土である世間を寂光土に変えるため、人々の幸福を求めて行動しなければならない」という法華経の教えに感動したのです。それは真宗の他力本願とは違った生き方でした。

 

 

賢治が法華経を選んだ理由

  家の家業を恥じ、嫌っていたことがあげられると思います。

父政次郎が浄土真宗を信仰し、口に南無阿弥陀を唱えながら、古着・質屋を営業し、困窮している農民から財貨や土地を収奪しているという罪悪感に堪えられなかったのである。賢治は父と異なる信仰によって、父の束縛を離れ、独立しようとしたとも考えられる。(P51)

 

 賢治が学んでいた盛岡高等農林学校の影響もあるだろうと書かれています。

 また賢治が専門とした農芸化学は、実験を主とする学問であり、理論や仮説を実験によって証明するためには、手足を動かして実験せねばならない。これも法華経の説く菩薩行のひとつと考えられる。更に農芸化学は、農学のうち自然科学的分野と深い関係があり、賢治が当時学んだ、空間や時間に関する最新の学説と、法華経の中で説かれている時空論は、相反するよりは、一致する面が多かったのである。(P51)

 

 国柱会に入信したのも、時代や世間が変わろうとしている変革の雰囲気に押されたからでしょう。

 

 賢治の家出、上京中の生活

  国柱会に入信後、親友の保坂嘉内や両親を折伏しようとしますがうまくいきませんでした。思い余った賢治は、大正10年(1921年)1月23日に家出してしまいます。

 国柱会を頼ってそこに泊まり込むことを当てにしていたのですが、断られてしまいます。

 それで親戚の小林宅に一泊して、後、職探しと下宿先を見つけるために奔走します。とりあえず筆耕の仕事を見つけ、本郷に下宿することになります。それらの事情を親戚の友人、関徳彌へ手紙で知らせています。また親友の保坂にも葉書を出しています。賢治にとっては家出中ですが、そうすることで家族に伝わるだろうという思いがあったようだ……と。((P77)

  

 また文信社に勤めて、いわば社会の底辺に暮らしている人達との接触があったことで賢治の眼から鱗が落ちた思いがしたであろう。「着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になっている人」「沢山の苦学生」弁護士になろうとしている男など、いわば都会のルンペンを見たのである。この書簡の終わりに『社会の富の平均よりも下に居る人はここでは大抵過激派で、上は大抵国家主義者やなにかです。変われば変わります。』人々を「社会の富」というもので、平均以上と平均以下に区分し、平均以上が国家主義、平均以下を過激派ですと言う見方は、当時の社会主義運動の昂揚期で、資本家と労働者、プルジョアと、プロレタリアという二大別の図式の反映であろうか。『変われば変わります』という含蓄のある言葉は、賢治自身が、平均以上の身分から、平均以下の身分になったという意味でもあるし、あるいは、社会自体もやがて現在の状態から変化するという事も意味するのか、今となってみると興味深い。『可愛い子には旅をさせよ』という言葉通り、賢治も短い期間ではあったが、父の手を離れて独立し自活したこの経験は、後の賢治の思想や、実践、創作の上に、さまざまな影を落としているであろう。(P79)

  賢治は初めて自活することで、社会を見たといえるのです。そして底辺でうごめく人々の生活が抱えている社会の矛盾を考えたと思われます。それが後の羅須地人協会の活動につながってゆくのでしょう。

 

 ここでの賢治の生活の詳細はP83~書かれています。筆耕の仕事と、童話作品の制作と、国柱会の布教活動に集中的に取り組んでいます。

 

 P98に図表14が載っています。

〈賢治散文作品数の年度別推移表〉です。年度ごとに作品数があげられているのですが、やはりこの大正10年が36作品で断突に多い。

 大正6年 1

   7年 5

   8年 3

   9年 8

   10年 36

   11年 16

   12年 29

   13年 9

   14年 0

   15年 5

 昭和2年 2

   3年 0

   4年 0

   5年 1

   6年 6

   7年 1

   8年 2

(こんなに緻密に調査されたことに頭が下がります。簡単に引用してはいけない気もしますが、このお仕事を称讃したかったのです。お許しください)

 

 

 4月に父政次郎が上京してきました。できれば賢治を花巻に連れて帰りたかったのです。

 ちょうど伝教大師1100年遠忌と聖徳太子1300遠忌の行事があったので、二人で関西旅行することになります。その旅行によって親子の確執が解けたようです。家を出て世間を知り、賢治の気持ちも穏やかになったという事でしょうか。

 

 8月に妹トシが喀血して、賢治は花巻に帰ります。

 


            *            *

 

 3章の農学校教師時代

 11月27日、トシが亡くなります。

 政次郎は思わず「とし子、ずいぶん病気ばかりしてひどかったな。こんど生まれてくるときは、また人になんぞ生まれてくるなよ」となぐさめた。トシは「こんどうまれてくるたて、こんどはこたにわりゃのごとばかりでくるしまなあよに生まれてくる」と答えた。(P159)

 

 賢治は二階にある日蓮宗の仏壇の御曼陀羅に終日祈り続けた。

 

 


            *            *

 

 4章は雨ニモマケズ手帳」に何が書いてあったか、の詳細です。

 

……この手帳は左開き用に製本されているが、賢治は裏表紙の方から逆に右開きに使用している。

 説明の都合から、裏表紙の方から頁番号を付け166頁までとなっている。内容は作品のメモ、法華経の引用、信仰について、生涯の反省についてなど、病床にあって脳裏を去来する、さまざまなことを赤裸々に記していて、晩年の賢治を知るには欠くことの出来ない資料となっている。(P189)

  手帳は昭和7年の闘病生活に書かれたようです。

 

埋経について

 賢治は遺言として「国訳妙法蓮華経」を一千部作って、知己の人々にあげてくれと言い残した。また埋経することも願った。賢治の三回忌にあたる昭和10年から次々と、手帳に記された各地の山に埋められということです。

 


            *            *

 

『私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが仏さまの心にふれて、一番よい、正しい道に入られますように』(P269)

 

 


            *            * 

 

 序章のP21に宮澤賢治法華経の教えを童話にしたもののリストがあります。最後に引用させていただきます。

  銀河鉄道の夜     ――見宝塔品

  虔十公園林      ――常不軽菩薩品

  よだかの星      ――薬王菩薩本事品

  ひかりの素足     ――如来寿量品

  グスコーブドリの伝記 ――菩薩行

  フランドン農学校の豚 ――殺生戒

  二十六夜       ――梟鵄 守護章

  ビヂテリアン大祭   ――殺生戒・菜食主義

  なめとこ山の熊    ――殺生戒・因果応報

  インドラの網     ――序品・如来寿量品

  貝の火        ――安楽行品

  洞熊学校を卒業した三人――念仏宗僧侶への批判

  どんなお経の影響を受けて書かれたか、わかりやすい。参考になります。

 

 
            *            *

 

  賢治に対する具体的なデータがいっぱい詰まった本で、その生涯が具体的にわかりました。いい本でした。詳細なデータは作品を深く読むための手掛かりになるでしょう。感謝します。

 

 

 

 

  …………      …………      …………      …………

 

     読んでいただいてありがとうございました。 

     誰もが穏やかで、幸せでありますように。