日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

底辺で生きてきて68歳になってしまいました。後悔することが多かった人生ですが、しかたがないです。自分なりの仏教を信じているのでなんとかやっています。訪問していただいて感謝しています。m(__)m

『十牛図 自己発見への旅』

 おはようございます。

 毎日、暑いですね。すこし風があると涼しく感じるんですが。

 ラジオ体操に行くためにアパートを出ると、必ず猫さんが横たわっています。朝はまだコンクリも冷たい。

 

  今日は十牛図の話です。 

 

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 検索すると様々な十牛図があります…… 

十牛図 - Google 検索

 

 十牛図

 

www.jisyameguri.com

(リンクを貼らせていただきました。感謝します)

 


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 図書館で借りた『十牛図 自己発見への旅』を読みます。

――難解です。サブタイトルが〈自己発見への旅〉だから、哲学用語がいっぱい出てきます。もうすこし易しい形の接近の仕方がいいな、という気持ちで読んでいったのです。

 

 

十牛図・自己発見への旅

十牛図・自己発見への旅

 

 目次

第一章 尋牛(じんぎゅう)

 1 牛が逃げているとは

 2 なぜ牛は逃げたのか

 3 なぜ牛を探し求めなければならないのか

 4 なぜ一人で牛を探すのか

第二章 見跡(けんせき)

 1 牛の足跡とは何か

 2 ことばの奴隷となるな

 3 中と見る

第三章 見牛(けんぎゅう)

 1 何が見るのか

 2 牛が隠れているとは

第四章 得牛(とくぎゅう)

 1 牛をつかまえる綱とは何か

 2 牛が暴れているとは

第五章 牧牛(ぼくぎゅう)

 1 荒牛をならすとは

第六章 騎牛帰家(きぎゅうきけ)

 1 牛にまたがっているとは

 2 楽しげに笛を吹いているとは

第七章 忘牛忘人(ぼうぎゅうそんにん)

 1 牛がいなくなったとは

 2 のんびりとうたたねをしているとは

第八章 人忘俱忘(にんぎゅうくぼう)

 1 なぜ空一円に飛躍する必要があるのか

 2 空一円相とは

第九章 返本還源(へんぽんげんげん)

 1 自然に生きるとは

第十章 入廛垂手(にってんすいしゅ)

 1 人を愛するとは

終章 十牛図の現代的意義

 「自分とは……」と問う哲学的な考察のエッセイといえます。

 ぼくは、簡単に十牛図の意図がわかればいいぐらいにしか考えていないかったのですが。

 


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 終章の十牛図の現代的意義を先に読みました。わかりやすいかな、と思って。

 

 三帰依文でいわれているように――

人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし」

 人間に生まれてきたことは奇跡のようなものです。

 三帰依文の仏法僧の三宝に帰依するとは? - 真宗大谷派(東本願寺)大阪教区「銀杏通信」

 

 人は、美しいものを見て「美しい」と感じる自性清浄心を持っているのです。それなのに世界は混乱している……環境破壊もある……

 わたしたちは不安の中に置かれています。仏教は無我を説きます。でも死ぬのはこわい。

 十牛図は普遍的なものを求める行程を描いたものです。〈幸福の在り方〉を指し示す。

 仏教の〈上求菩提・下化衆生〉を絵で表したものだということです。

 

第一章 尋牛 (じんぎゅう)

「わたしとは、自己とは何か」という問い、がある。

 なぜ世界はあるのか ……

 わたしたちは、根源的な問いに対して無知なのだ。

 

 P11では、この答えが得られず、不可避的に罪に陥らざるを得ない存在として人間を定義しています。

 ヤスパースはそれを〈限界状況〉といいました。また、聖書の〈ローマ人への手紙〉では罪に陥ることが描かれます。

 仏教での罪とは、貪・瞋・痴です。それは無明であることを理解せず、「縁起の中に空であり無我である」真理を知らないからです。

 

 聖書では、楽園追放によって〈原罪〉を持ったと書かれます。神に背いたからだと……

 キリスト教は「隣人を自分と同じように愛しなさい」と教えます。

 仏教は仏の慈悲を教えます。そこから導かれるのは「自分と同じように他者に布施しなさい」という教えです。

 けっきょく宗教はみんな同じことを言っているのです。〈自己愛の否定〉です。自己のエゴイズムの否定……

 

無我の発見

「無常であるから無我である」「縁起の法であるから無我である」

 P51には、無常と苦と無我の関係が記述されています。

 わたしたちの「自我意識から自己と世界が現出し、そこに二元対立の世界ができあがります」(P53)

 無常だと感じることは、自我には苦しいことなのです。

 

 

 第二章 見跡(けんせき)

足跡とは何

 仏典など、仏教の教えは真理へ近づく道程だということができます。

ことばの奴隷となるな

 それは単に知識や真理として知る、ということではない。

 根源的なものから思考するということです。

リグ・ヴェーダ』のなかには、ことばがヴァーチュ神として神格化され、ことばを宇宙の最高原理とし、ことばから一切が生じたと考える思想があります。(P101)

 言葉についての考察が続くのですが……

 P109で「維摩の黙然」が語られます。(維摩経

 言葉では伝えられないものがある。禅でいわれる不立文字、教外別伝です。

 

 P113では「人間同士の絶え間ない相互的協力による以外には真理に到達することはできない」と書かれてあります。

 

 著者の答えは〈中道〉です。

「極端なものの見方を離れ、その見方に基づいて生きてゆくこと」と定義しています。

 

 

第三章 見牛(けんぎゅう)

「見る」ということを考察している章です。

 仏教はすべてを縁によって起こると考えます。

 

 とにかく、「見る」という視覚を手掛かりに、別のさまざまな〈見る働き〉を自己のなかに養成してゆく必要があります。できれば、あの牧人の見牛の体験を自らのなかで追体験し、ああ、〈見る〉とはこういうものなのかと、ことばを離れて納得することができたら、なんと素晴らしいことでしょう。(P157)

 

第四章 得牛(とくぎゅう)

牛をつかまえる綱とは

 P173では、念・定・慧である、と書かれています。

念→定→慧と展開してゆく心とは、また「ヨーガの心」でもあります。ヨーガということばは、前述したようにもともと二つのものを結びつけるという意味です。すなわち、まずは分離した身体と心という二つを結びつけて一つにして調和せしめてゆきます。(P174)

 

ヨーガは〈止〉と〈観〉との二つの心から成り立っています。(P175)

 

第五章 牧牛(ぼくぎゅう)

荒牛をならすということ

  • 深層心理には煩悩の種子が眠っている。
  • それは貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の六つの根本煩悩と、それらから派生する二十の随煩悩、合計で二十六種もの煩悩です。
  • 「わたし」と「わたしのもの」に対する執着です。

 仏教はすべてを幻と見て、二元の世界を無分別智で乗り切っていきます。

 

第六章 騎牛帰家(きぎゅうきけ)

 牛にまたがっている絵です。そして遠くが見える。

 これは深層の心理――未那識や阿頼耶識を表しているとみることができます。内面の世界に気づいているのです。

 楽し気に笛を吹いているのは、〈自己〉を得た歓喜を表しています。

第七章 忘牛忘人(ぼうぎゅうそんにん)

 牛がいなくなっています。

 真の自己と、それを追い求めていた自己の二元の世界が止揚されてひとつになった状態です。

「真の自己」とは何かの考察が書かれてあります。P261~272。

 

 絵では、のんびりとうたたねをしている様子が描かれているのですが…… 

最高の安穏、最高の安らぎとは何か。それは自分が真の自己に成り切ったときに味わう心理ではないでしょうか。事実、自分が自分になり切れば本当に楽です。しかし現実はそうではありません。わたしは根源的なあり方から逸脱して、二つのものに分化しています。一つはいわゆる〈自分〉というもの、もう一つは〈他者〉というもの、その二つが対立する二元的な世界にわたしのあり方が変貌してしまっています。そして、自分の前に投げ出された他者かの刺激を受けて、わたしは疲れ、悩み、苦しんでいます。(P275)

 

 涅槃寂静……

 般若、空の思想は静けさを求める運動です。

第八章 人忘俱忘(にんぎゅうくぼう)

 これは禅の墨画でよく描かれる空一円なのですが……なぜそこに飛躍する必要があるのかが問題です。

最後まで残った自我意識の残滓をぬぐい去って、この第八図の「空一円相」に飛び込んでゆかねばなりません。(P289)

 野狐禅とは、自分が悟ってもいないのに悟ったと勘違いして慢心することです。

 

「空一円相」とは、

個が全体であり、全体が個であるということになり、あの「一即一切」という相即の論理にあてはまります。(P295)

 命と物のあいだに区別はない。分子、原子そのものが命である、そういう世界です。

 

 P300には、道元禅師の言葉が書かれています。

仏道をならふといふは自己をならふなり」

「自己をならふといふは自己をわするるなり」

「自己をわするるというは万法に証せらるるなり」

 

第九章 返本還源(へんぽんげんげん)

 絵に自然が戻ってきました。これは、牧人の心を自然に喩えたものです。

 この章では親鸞の〈自然法爾〉という言葉が紹介されています。

 

 自由人とは何でしょうか。

 他との縁、他に操られていたものを滅して行く過程がこれまでの絵でした。この絵では〈自らによる生き方〉が描かれていると捉えることができます。

 煩悩と分別に操られた自己を捨て、自然から学んで……

第十章 入廛垂手(にってんすいしゅ) 

 この最後の絵は救済の図です。牧人は街に行き、童子と声をかけあっています。

上求菩提、下化衆生」を表したものといえるでしょう。

 

 お釈迦さまのジャータカ物語にも描かれているように、慈悲の力は偉大です。

 「捨身飼虎図

 他者を愛するとは、共に苦しむことです。 

 

 
            *            *

 

 文章がすごく難しかった……それに長い。でも、お陰で、仏教、西洋哲学、キリスト教などの知識を得ることができました。

 ヨーガについても、著者がどう捉えているか、知ることができました。

 10個の絵について、これだけ考察を重ねることができるのはすごいことです。禅の根源にある考え方がわかった気がします。

 

  これからも仏教関係の本を読んでいくことにします。

 

 

  …………      …………      …………      …………

 

     読んでいただいてありがとうございました。 

     誰もが穏やかで、幸せでありますように。