日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

底辺で生きてきて68歳になってしまいました。後悔することが多かった人生ですが、しかたがないです。自分なりの仏教を信じているのでなんとかやっています。訪問していただいて感謝しています。m(__)m

『禅がわかる本』2

 おはようございます。

 昨日は貫かれるような日差しの暑さでした。今朝も気温が高いようです。

 図書館が休館日なのでどうしよう。あまりお酒を飲むのも……体を壊す元ですし。

 

 

 

  

            *            *

 

 

禅がわかる本 (新潮選書)

禅がわかる本 (新潮選書)

 

  目次

プロローグ 禅とは何か、公案とは何か

1 莫妄想

2 不思善不思悪

3 倩女離魂

4 隻手の音声

5 東山水上行

6 橋流水不流

7 主人公

8 無位の真人

9 独坐大雄峰

10 天上天下唯我独尊

11 百尺竿頭進一歩

12 麻三斤

13 般若

14 放下著

15 婆子焼庵

16 坐久成労

17 拈華微笑

18 正法眼蔵

19 喫茶去

20 迦葉刹竿

21 無功徳

22 達摩安心

23 倶胝堅指

24 自灯明・法灯明

25 趙州狗子

あとがき

 

  

            *            *

 

  禅の本質は〈出世間(しゅっせけん)〉とP66に書いてありました。出家でも、出離でもいいのですが、世間のものの考え方から離れて、常識に囚われない心というこのようです。

 

  今日は4番からです。

 

4 隻手の音声

禅が教えているのは、こだわりのない「自由」な精神だということは、すでに前に論じてあります。「自由」ということは「自分に由る」ことであって、「世間の常識に由る」ことではありません。(P51)

 この言葉に、なるほどと頷いてしまいました。

「禅は自由」か……で、その自分をほんとうに信じることができるのか、それが問題です。

 

 白隠禅師は江戸時代の禅僧です。「隻手の音声」は白隠が作った公案です。

 ここでの解説はこう書かれています。

  • われわれは「相対の世界」に生きている。
  • 親がいれば子があり、善があれば悪がある。区別、差別の識別をせざるを得ない。
  • 人は自分中心で、相手を自分の都合にいいように動かそうとする。
  • そういう相対の世界から脱出せよ。
  • 自分の方から近付いてゆけ。そうすれば相手も近付いたことになる。

 それが「隻手の音声」です。片手をじっと動かさずにおいて、もう一つの手だけを動かしても音は出ます。あるいは、片手でもって机を叩いても音は出るのです。両手でなければ音が出ない――とこだわっていてはいけません。

 白隠禅師が「隻手の音声」を聞け、と言われる公案を出されたことを、わたしは素人の立場からそのように解釈しました。(P54)

 

  じゃあ、これが正解か――と念を押されますと、「そうじゃありません」と答えねばなりません。

 なぜなら、もしもこれが正解だとして、われわれがこの正解にただわるならば、禅というものが世俗の知恵になってしまうからです。(P54)

 

  ふむ……難しい。

 片手の音は、常識を超えたところで聞こえるのか……

 

5 東山水上行

……この公案は、『雲門広録』に出てきます。

 雲門文偃(864~949)は、中国唐末五代の禅僧です。

 ある日、一僧が雲門のところにやって来て、

〈如何なるか是れ諸仏出身の処〉(三世の諸仏が得た悟りの境地はどういうものですか)

 と問を発します。それに対して雲門が答えたのが、この「東山水上行」です。

 東山は、中国湖北省黄州府にある憑茂山の別名です。五祖弘忍禅師の道場があったところです。しかし、雲門はたまたまその東山を思い出したので「東山」と言ったのであって、別に東山である必要はありません。富士山でもいいし、上野の山でもいいのです。

 普通、われわれの常識では、山は動きません。動かざること山の如し――と言いますが、不動なのが山の特徴です。

 けれども、われわれがそのような常識に寄りかかっていると、とんでもない自体に遭遇し、あわてふためくことになりそうです。(P60)

 常識を否定し、意表を突くのが禅の会話なのでしょうか。 

 

6 橋流水不流

 これも「東山水上行」に似ています。

 こちらは『五燈会元』(巻二十)に出てくるもの。梁の武帝の時代の傳大士(497~569)の言葉です。

「橋は流れて水は流れず」

 視点を変えれば橋のほうが動いているように見える。

 

7 主人公

『無門関』第12則の公案

  中国唐末の禅僧である瑞巌寺の師彦(しげん)和尚は、毎日、自分自身に、

「主人公」

 と呼びかけ、そしてまた自分自身でそれに返事をして、こう言った。

「惺惺著」(しっかり目を覚ましておれよ!)

「諾」(はい)

「他時異日、人の瞞う受くること莫れ」(これからも後も、他人に瞞されてはいかんぞ!)

「諾諾」(はい、はい)

 師彦和尚は、自分自身に「主人公」と呼びかけるのです。そして「他人に瞞されるな」と忠告しています。もちろん、この「瞞されるな」は、金銭的な問題やトラブルのことではありません。わたしたちが世間の常識に縛られていることを言ったものだと思えばよいでしょう。(P67)

 なんか素敵な感じがします。

 

8 無位の真人

臨済録』から――

「法堂に上って言われた。この生身の肉体の上に、なんら世間的な位格を持たぬ真実の人間がいて、常におまえたちの感覚器官から出入りしている。これをはっきりと見きわめていない者は、さあ、看よ、看よ! と。そのとき、一僧が進み出て問うた、世間的な位格を持たぬ真実の人間とは何ですか? 禅師は椅子より下りて、その僧をつかまえて言った。さあ言え! 言え! その僧は、一瞬遅疑する。禅師はその僧を突き放して言う。世間的位格のない真実の人間とは、糞にすぎんわ。そう言って、さっさと方丈に帰って行った」(P71)

  自分のなかには「無位の真人」がいる。世間の常識に縛られない自由なほんとうの自分です。そう臨済はいっているんです。弟子はそれをとやかく考えて定義しようとしたから怒られたようです。

 

9 独坐大雄峰

 唐代の禅僧の百丈懐海の話です。

 この人はエピソードが多いです。禅に自給自足を取り入れたのも百丈ですし、「一日作さざれば、一日食らわず」と言った話もあります。リンクには野狐禅のエピソードも出てきます。

『碧巌録』(第26則)の公案です。

〈僧、百丈に問う。如何なるかこれ奇特の事。丈云く。独坐大雄蜂。僧礼拝す。丈、便ち打つ〉

 一僧が百丈禅師に尋ねました。

「いったい何が奇特なことですか?」

 奇特というのは、すぐれている、すばらしい、ありがたい、といった意味です。真にすばらしいものって、何ですか? と、僧は問いました。

 それに対して、百丈懐海が答えます。

「独坐大雄蜂」(独り大雄蜂に坐す)

 大雄蜂とは、すでに述べたように、大雄山(別名・百丈山)の峰です。百丈禅師がたまたま大雄山に住しておられたので、大雄峰が出てきたのです。別段、大雄蜂でなくてもかまいません。富士山でもいいし、上野の山でもいいのです。

「ここ」でいいのです。

 つまり、百丈禅師が言いたかったのは、

「わしゃ、ここにこうして、独り坐っているのじゃ」

 ということです。その意味は、おわかりになりますよね。(P75)

  僧が尋ねたのは「何がすばらしいか?」です。それは世間を基準にしてだったのです。百丈はそうした相対的なものでなく、絶対的にすばらしいものを教えてやろうとしました。それが「独坐大雄蜂」です。

 僧にはわかったのです。百丈が世間的な価値観から離れて、自由になっていることが……それで礼拝したのです。

 ところがその僧の礼拝に、百丈は手にしていた竹の杖でピシリと打ちます。

 僧が世間の基準で礼拝したことへの返礼だったのですね。

 うむ、意味がわかると、禅は親切というでしょうか? ちょっとよくわかりません。

 

10 天上天下唯我独尊

  • お釈迦さまは、誕生したときに「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられています。
  • たぶん後の世の神格化するための伝承でしょう。
  • この本では、お釈迦さまは如来として生まれてきたのだから、そう描かれて当然だと書かれています。
  • 小乗仏教の見方のように、35歳で悟りを開くまで人間であってブッダではない、という考えもとりません。
  • それまでのバラモン教とはまったく違った新しい思想、哲学だったのですから、その宣言であるとしています。
  • 「我が唯一尊い」というのは、それまでのヴェーダ哲学の〈我〉とは〈違う我=無我〉という解釈から出たのだ――という説も、昔、本で読んだことがあります。

 いずれにしても現代の人権意識でもって解釈してはいけないみたいです。

 歴史的なことを積み重ねて人類は進歩してきたのですから。

 

11 百尺竿頭進一歩

〈百尺竿頭に一歩を進む〉――『五燈会元』四に出てくる言葉です。また『無門関』第46則に、

 石霜和尚が言った。「百尺の竿の先に立って、さらにどうして一歩を進めればよいか」と。またある古徳が言った。「百尺の竿頭にどっかと安住している人は、悟りを開いているといっても真に悟りを開いたというわけにはいかない。百尺竿頭よりさらに一歩を進めて、十万世界に自分の全身を現さねばならない」と……(P89)

 そういうふうに書かれているそうです。

 百尺もある竿の先端から一歩進めると落っこちてしまいます。落っこちるということは、衆生の世界に入って衆生と共に生きることです。それがほんとうの悟りだと禅は教えているのです。

 

12 麻三斤

 これは中国五代の禅僧の洞山守初禅師(910~990)の言葉です。『碧巌録』第12則。

ある僧が洞山禅師に尋ねます。「仏とは何ですか?」と。すると、洞山は答えました。「麻三斤」と。これが公案なんです。(P98)

 洞山がいた襄州(江西省)が織物にする麻の洞山産地であったところから、たまたま洞山が麻の目方を計っていたところに質問されたものだから、そう答えたのだ、という解説です。

  • 仏を絶対的なものだと定義すれば、それはわたしたちから遠い存在になる。それでは意味がなくなる。わたしたちが呼びかけ、甘えられる存在であるからこそ、わたしたちの日常にも意味がある。
  • それで洞山は「仏とは?」と問われて、この麻のようなものだ、と答えたということです。

『無門関』第21則には、洞山の師の雲門文偃禅師が(949年没)が同じように「仏とは何か?」と問われて「乾いた糞かき箆」と答えた記述があるそうです。

 仏は観念的なものでない。人が思って崇めるようなものでもない。ここにあるだろうということ、なのです。

 ここの解説では〈神の物差し〉〈仏の物差し〉の話が出てきます。人は勝手に自分の価値判断で物事を見ているのですが、それでは不完全なのです。

 

13 般若

 ここでは仏教用語の〈般若〉を解説しています。般若は智慧のことです。無分別智のことです。

 ぼくらはあまりにも知識として知ってしまっているのですが……相手と比べないことや、自分の得を取ろうとしないのは難しい。

 般若は仏さまの物差しなのです。

 

14 放下著

「後、三年しか生きられないとしたら……」というエッセイを読んだエピソードから始まります。

「人生で何が大事で、何が大事でないか、しっかりと判別し、悔いのない人生を送れ」と書いてあって、思わず共感し、感心しそうになります。

 でも、いや、そんな生き方はできないだろう、と反省するのです。

 人間に、何が大事で、何が大事でないか、わかるのか。

 

「放下著(ほうげじゃく)」は『従容録』第57則に出ています。著は命令の助詞で、意味は「投げ捨ててしまえ」ということです。

 中国唐代の厳陽尊者が、なの有名な禅僧の趙州和尚に尋ねました。

「何もかも捨て去って一物あ持っていません。そういう時は、どうしたらよいでしょうか?」

 すると趙州和尚は、

「放下著」

 と答えました。

 一物も持っていないのに、捨ててしまえ――の答えはおかしいと思って、そこで厳陽尊者は反問します。

「すでに何も持っていません。それなのに、捨て去れと言われても、何を捨てるといいのですか?」

 すると、趙州和尚はこう答えました。

「それじゃあ、かついで行け!」

 

 これの解説は、わたしたちが持っている相対的な観念――価値観を捨て去れと、趙州和尚が言ったと……人間的な物差しを捨てて〈般若〉に立って世界を見よ、ということらしいです。

 

15 婆子焼庵

『五燈会元』に出てくる話です。

 昔、清僧がいました。その生活は清らかで、まさに聖者のそれでした。

 そこで、一人の老婆がこの清僧のファンになります。

 老婆は二十年間、この清僧に供養しつづけます。

 そこのところを、『五燈会元』は、

……(略)……

 たぶんこれは、常に若い女性を雇ってきて、この僧にサービスさせたのでしょう。

 そして、二十年がたちました。

「もう、よかろう……」

 と、老婆は思ったのです。

 ある日、彼女は若い娘に命じました。

 娘は命じられた通り、この僧にしなだれかかります。そして、

「ねえ、わたしを抱いて……」

 と、僧を誘惑しました。

 ところが、僧は清僧です。そんな誘惑をにべなく撥ねつけました。

 そこのところを、『五燈会元』はこう記しています。

……(略)……

「恁麼の時」とは、「こんな時」です。娘は僧に抱きついて、こんな時、どうするの……と、なまめかしい声で言った。それに対して僧が言ったことばが、「枯木寒厳しに倚りて、三冬に暖気無し」です。わたしの心は枯れ木が冷たい岩によりかかっているようなもので、冬の三か月暖気がないのと同じである。そんな誘惑に負けるはずがない、と、僧は言ったのです。

 いや、ご立派ですね……と、そんな評言はやめておきます。じつは老婆は、娘からの報告をうけて、腹を立てたのです。老婆は僧を、ちっとも立派とは見ていません。

「わたしゃ、この二十年間、何たる俗物を養っていたのであろうか……」

 そう言って、老婆は清僧を庵から追い出し、おまけにその庵に火をつけて焼いてしまいました。(P121)

 そういう公案だそうです。

 さあ、自分ならどうするか。

 この後には、道徳と宗教は違ったものだというエピソードが綴られています。

 

 宗教では、布施をしたほうが「ありがとう」という。結果を大事にする道徳とは違った見方です。

 こだわるな、というのが禅だとひろさんはいうのですが……

 現実にそうなれば、そうなったときのこと、なのでしょうか。

 

 

            *            *

 

 禅の公案は、いろんなことを考えさせるのでおもしろいです。来週の月曜日に残りの公案を読みます。

 

 

 

  …………      …………      …………      …………

 

     読んでいただいてありがとうございました。 

     誰もが穏やかで、幸せでありますように。