日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

底辺で生きてきて68歳になってしまいました。後悔することが多かった人生ですが、しかたがないです。自分なりの仏教を信じているのでなんとかやっています。訪問していただいて感謝しています。m(__)m

『禅がわかる本』1

 おはようございます。

 水害の後は猛暑で……被災された方たちはたいへんでしょう。お見舞い申し上げます。復旧の目処がなかなか立たないようです。インフラは徐々に改善しつつありますが、まだ行方不明の人もおられます。日本は自然災害の国で、備えておくことが重要です。行政にはそういう対処をしてもらわなくてはなりません。水害はほとんど人災で治水の問題です。庶民は災害から逃げる覚悟を持つべきなのでしょう。普段から「災害にあう国に住んでいる」と認識しておくのが大切ではないでしょうか。

 それにしても暑い。異常気象なのでしょうか。

 地球的な規模で考えると普通のことなのか。

 

 

            *            *

 

 

 禅の公案に興味がありました。

 禅問答というのはわけのわからないものの代表みたいになっています。その意味を知りたい。 

  この本は禅の公案についての解説です。ちょうどよかった。ひろさちやさんが解説しているのですが、その語り口はいつも平易でわかりやすいから好きです。学問的にはもっと違う解釈があるのかもしれない……でも、ひろさちやさんの公案解釈でいいと思ったりします。また、いつか公案の解題を読むことがあるかもしれない。そのときにひろさんとは違う解釈なんだな、と思えればいい。

 

 

禅がわかる本 (新潮選書)

禅がわかる本 (新潮選書)

 

 目次

プロローグ 禅とは何か、公案とは何か

1 莫妄想

2 不思善不思悪

3 倩女離魂

4 隻手の音声

5 東山水上行

6 橋流水不流

7 主人公

8 無位の真人

9 独坐大雄峰

10 天上天下唯我独尊

11 百尺竿頭進一歩

12 麻三斤

13 般若

14 放下著

15 婆子焼庵

16 坐久成労

17 拈華微笑

18 正法眼蔵

19 喫茶去

20 迦葉刹竿

21 無功徳

22 達摩安心

23 倶胝堅指

24 自灯明・法灯明

25 趙州狗子

あとがき

  ということで、25項目あります。全部を理解したら禅がわかるのでしょうか。

 

 プロローグでは

臨済録』から臨済義玄の言葉を引用しています。

 「修行者たちよ、おまえたちが仏教に対する正しい理解をしたいと思うならば、絶対に人惑(人間を権威とする迷妄)を受けてはならない。内からであれ外からであれ、おまえを束縛し、手枷足枷となるものがあれば、すぐさま断ち切ってしまえ。すなわち、仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を、羅漢に逢えば羅漢を、父母に逢えば父母を、親族に逢えば親族を殺せ。そうしたとき、はじめて解脱が得られるのだ」(P12)

  これが有名な臨済の〈仏に逢えば仏を殺し……〉の文章です。

 要するに、臨済は,すべての既成の権威を蹴飛ばしてしまえ! その否定の精神が禅だ――と言っているのです。

 と、書かれます。

 ひろさんは、仏教が道徳的なことを言ったり、世間の常識的なことを追認することに違和感を感じているようです。

 仏教の真理は「世間の常識的なものを超えたところにある」

 禅の持っている荒々しさが魅力だ、とも言われています。

 

 ここでは「公案とはなにか」について思いを述べられています。

公案は禅の試験問題といえる」

 お前ならどうする、どう答える?

 自分で考えなきゃならない、自分で答えを出さなきゃならない、そういうことだ。

 

 では、それぞれの公案の解説です。

 

  

            *            *

 

 

1 莫妄想(まくもうぞう)

  これは、中国唐代の無業禅師の言葉です。無業禅師は馬祖道一の門下の人で、彼は生涯、誰が何を尋ねても、ただ、

「莫妄想」

 と答えたといわれています。

 妄想とは、人間がいくら考えてもわからない問題を考えることです。

 未来のことなど、人間がいくら考えてもわからないのです。あるいは、死後の世界があるかないか、人間が考えてわかる問題ではありません。そんな問題を考えるな! というのが「莫妄想」です。(P24)

  たしかに考えても解決できない問題にこだわって、身動きできない状態に自分を縛りつけているということがあります。

 考えてもわからないことは、いまの自分にはわからない――もっと自由になれ、ということでしょうか。

 禅の悟りとは、「わからないことがわからないということだと、わかること」です。

 

 2 不思善不思悪

 中国禅の六祖慧能(638~713)は禅宗中興の祖とされています。

 慧能は、禅宗第五祖の弘忍(ぐにん)について禅を学び、第六祖となりました。

 しかし、五祖の弘忍の弟子のうちには、この慧能が五祖の後継者であることを認めない人々がいました。そこで五祖が慧能に授けた衣鉢を取り戻そうとします。禅宗においては、師が弟子に衣鉢を授けることが、正式に自己の後継者と認めたことになるのです。

 旅に出た慧能を、数人が追いかけます。

 なかに一人、もとは武人であった慧明という者が慧能に追いつき、衣鉢を渡せと申し入れました。

 しかし、慧能は、この衣鉢は力でもって争うものではないとして、石の上に衣鉢を置きます。そして、取れるものなら取りなさい――と慧明に言うのです。

 慧明は石の上から衣鉢を取り上げようとしますが、どうしても取れません。

 そこで慧明は、自己の非を悟り、

「わたしが求めに来たものは〈法〉です。どうか大法を説いていただきたい」

 と慧能に願い出ます。法というのは「真理」の意味です。大事なのは、衣鉢ではなしに仏法の真理である――。慧明にはそれがわかったのです。

 そこで、慧能が慧明に説いて聞かせたことばが、

「不思善不思悪、正与麼の時、那箇か是れ明上座が本来の面目」(六祖壇経)

(善をも思わず、悪をも思わない。まさにそのとき、明上座よ、あなたの本来の面目はいかなるものか?)

 でした。このことばを聞いて、慧明はいかなるものか忽然として大悟したといいます。(p31)

  これが公案のエピソードになっているのですが、「うん、そうだろうな」という気もします。

 どうも公案というのは、どちらが悟ったか、悟っているかのパトルのような気もするのです。禅者にとってすべては〈悟る〉ことをめぐっての戦いなのでしょう。

 

 ここでの教訓というか、意味はこうです。

 わたしたちはいつも善悪という対立概念でもって物事を考えています。どんなことに対してもそうなのです。自分にとって「いいことか、悪いことか」……

 そういうことから自由になってごらん。そう呼びかけている。

 善とか悪とかの考えから自由になったら、自分はどうなんだ。

 難しい……そうならない自分がいます。

 でも、自由になる訓練は必要なのです。

 

3 倩女離魂

  これは女性を巡る話です。

『無門関』35則の公案です。五祖……ここで出てくる五祖は五祖山(東山)に住んでいた法演です。その法演がこう僧に問うたのです。「倩女離魂の話があるが、お前さんはどちかが本物だと思う?」

 

「倩女離魂」はこういう話です。

  1. 幼なじみの倩女といとこの王宙がいました。幼い頃、倩女の父親は「二人が夫婦になるといい夫婦になるだろうな…… 」と思っていました。
  2. ところが倩女が年頃になると、父親は資産家の青年との婚約を決めてしまいます。
  3. 倩女も王宙もいっしょにさせてほしいと頼みましたが、聞き入れてくれません。
  4. 王宙は土地を去ります。船に乗って旅に出ます。
  5. 何日後に「王宙さん、王宙さん」と呼ぶ声がします。岸につけると倩女でした。「いっしょに連れて逃げて」そういいます。
  6. 二人は蜀の国に行き、五年間同棲し、二人の子どもも作りました。
  7. でも倩女は故郷に帰りたくなるのです。
  8. 王宙は決意します。故郷に帰り、船に彼女を待たせて、彼女の両親に会いに行きます。これまでを謝罪して彼女に罪がないことをいいます。
  9. 両親はきょとんとします。お前さんは何寝言を言っているのか。倩女はお前さんが逃げた後、虚脱状態になって寝てばかりいる。そんな馬鹿な話はあるものか。
  10. 王宙は船に戻り倩女を連れて来ます。すると、王宙が連れた倩女と寝ていた倩女が合体したというのです。それから40年ほど、その合体した倩女は生きたそうです。

 公案は、逃げた倩女が本物か、寝ていた倩女が本物か問うものです。つまりどちらの生き方をするかというものです。倩女はいっしょに逃げて貧しいながらも幸せに暮らしていたようですが、前の生活に未練もある。

 これが人間というものですよね。 

 いつも決められなくてふらふらしている……

〈明らめる(諦める)〉ことはできるのでしょうか。

 

 

  

            *            *

 

 これから少しずつ、禅の公案を読んでいきます。

 

 

 

 

 

  …………      …………      …………      …………

 

     読んでいただいてありがとうございました。 

     誰もが穏やかで、幸せでありますように。