日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

社会の底辺で生きてきて68歳になりました。後悔ばかりの人生でしたが、それもしかたがないことです。〈初期仏教〉を信じているので、なんとか暮らしています。訪問していただいて感謝しています。ありがとう。<m(__)m>

『笑う禅僧』

 おはようございます。

 晴れると蒸し暑い。やはり梅雨ですね。今日も暑くなりそうです。だんだん夏が近づいてきます。

 お酒を飲みすぎました。しばらく飲んでいなかったので……

 反省。

 新しい週が始まります。元気でやるぞ (^^)/ 

 

 

 

            *            *

 

 この本をまとめられないだろう、と思ってしまいました。

 インテリ向きというか、ある程度の常識以上の知識を必要とするのでないか……

 よく読めば、難しいことを書いているわけではないのですが、取り上げるテーマが難解なのです。そういう難しさが、禅への理解に結びつけばいいのですが、そうはならない予感がするのです。

「はじめに」に書かれているように、

おそらく書店でこの本を手にしてくださった方は禅や仏教に興味をもち、いろいろな本を読み、さまざまな講義を聴いて、知識だけはいっぱいにちがいない。

 ということが前提だからです。なにも知らない人に書かれた入門篇ではない気がします。

笑う禅僧─ 「公案」と悟り (講談社現代新書)

笑う禅僧─ 「公案」と悟り (講談社現代新書)

 

 目次はこうなっています。 

1 妖怪サトリ……鈴木大拙禅と日本文化

2 シアトルのイチローはゼン・フェイス……『無門関』第一則「趙州狗子」

3 前世療法……『無門関』第二則「百丈野狐」

4 昇天の松……『無門関』第五則「香厳上樹」

5 笑う禅僧……『無門関』第六則「世尊拈花」

6 臓器移植……『無門関』第八則「奚仲造車」

7 宗教は麻薬、禅は劇薬……『無門関』第十四則「南泉斬猫

8 自由と規則……『無門関』第十六則「鐘声七条」

9 ドッペルゲンガー……『無門関』第三十五則「倩女離魂」

10 アゴの杢之助……『無門関』第三十七則「庭前柏樹」

11 王様の見た夢……『無門関』第三十八則「牛過窓櫺」

12 人工孵化……『碧厳録』第十六則「鏡清啐啄機」

13 神秘主義……『碧巌録』第四十則「南泉一株花」

14 耳に見て目に聞くならば……『景徳伝燈録』巻十五

15 禅とドグマ……『葛藤集』第四十七則「丹霞焼仏」

16 聞声悟道見色明心……『葛藤集』第二十八則「香厳撃竹」

17 天才か秀才か……『六祖壇経

18 恋狂い……『近世禅林僧宝伝

19 腹ごもりの聖教……『蓮如上人御伝絵記』

20 聖愚……『景徳伝燈録』巻七

  

 目次を見ただけで難しそうです。 

 著者はこんな人です。 

www.chugainippoh.co.jp

 

『無門関』『碧巌録』の現代語訳をUPされているサイトです。リンクさせていただきます。感謝しています。 

無門関:その1

無門関:その2

 

碧巌録:1.1

碧巌録:1.2

碧巌録:その3

 

 禅問答というのはわけのわからないことの代名詞になっています。深遠なことは難しいのでしょうか。

 たぶん、理屈を考えたら単純、シンプルなことなんでしょう。普通の人にはそのなかの理屈みたいなものが見えないだけで……

 

 公案という〈問い〉はなぜあるのか。

 禅宗と関係のない自分にとってどうなのか。けっこう意味深で、違う世界を見せてくれるのかも知れない。禅はおもしろいのか。

 それで、この本を読んでみる氣になりました。

 禅の公案の部分をまとめます。

 

 

            *            *

 

 

2 シアトルのイチローはゼン・フェイス……『無門関』第一則「趙州狗子」

一人の僧があるとき趙州に尋ねた、

「狗にも仏性があるでしょうか」と。

 趙州は、

「無」と答えた。

 これ、別の僧に同じ質問をされて、「有」と答えたりしているんです。

 禅では、「価値のないもの、価値の低いものにこそ真実を見出す」という傾向があるようなのですね。P34にその項があります。

 禅の「無」とはなにか。

 相対世界から「対」を無くした絶対世界。(P36)

「有って無い」「無くて有る」

 認知科学に「意味飽和」(semantic satiation)というタームがある。人間は一定の意味を表現する事象を反復して与えられると、その意味を認識することができなくなる現象をいう。

 たとえば、ひとつの言葉、「無」ならば「無」を、「無」、「無」、「無」と何度も繰り返しているとある時点で「無」という言葉がもっていた意味が、自分が発している「無」という音のなかに見当たらなくなっていることに気づかされる。いつのまにか「ム」という空虚な音の連続になっている。

 この現象は聴覚的だけでなく、視覚的にも発生するとされている。意味飽和はすべての意味の場に共通して起こる現象なのである。(P39)

  ソシュール言語学で表現すると、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の融解……P40

 

 言葉は真理を入れる容器なのだ。当然ながら容器には容量の限界がある。「無」という言葉に「無」の内容をすべて収められるか? 禅者はそれを逆手に取った。

「無」という言葉の容器から「無」をあふれさせよう。そうすることで「無」を「無」でなくさせたのである。相対世界の「無」から絶対世界の「無」への跳躍だ。それがこの「趙州狗子」の公案の眼目である。(P40)

 3 前世療法……『無門関』第二則「百丈野狐」

  これは「野狐禅」という言葉のいわれとなっている有名な話です。

 法話の後、百丈和尚がひとり残っていた老人にどうしたのかと訊くと、「じつは私は人間ではありません。昔、住職をしていたときに、修行者の〈悟りを得た人は因果の世界に落ちるでしょうか?〉という質問に〈落ちない〉と答えたので野狐になってしまいました。正しい答えを教えていただき、ここから解放してください」と願った。百丈は「誰も因果の鎖を消し昧ますことはできない」と答え、それで老人は悟りを開くことができました。

 そして百丈に葬儀をしてくださいと頼んだのです。

 百丈が僧たちに葬儀の準備をするようにいうと、「誰の葬式をするんだろう」と不思議がりました。

 葬儀は無事に終わりました。百丈が顛末を話すと、黄檗が、

「その老人は錯って一転語を答えたばかりに、五百回生まれ変わって野狐身に堕ちたといわれます。もし、一転語一転語について、いつも錯らなかったとしたら、いったい何に生まれ変わる定めだったでしょうか」

 すると百丈和尚は、

「こっちへ来なさい、おまえのために言って聞かせよう」

 と言った。

 そこで黄檗は進み出ると、百丈和尚の横面に平手打ちをくわせた。

 百丈和尚は手を叩いて笑いながら言った。

「赤ひげの達磨は私だけだと思っていたのに、ここにもうひとりの赤ひげがいたわい」(P46)

 

 この公案を輪廻の観点から解説されています。

 インドの紀元前600~300年頃に成立した「ウパニシャッド」は、〈人間の本体のアートマン(我、または霊魂)は宇宙の根本真理であるブラフマン梵天)と同一不変である〉と梵我一如を説いた。そして輪廻は繰り返すと考えた。

 

 仏教は、輪廻、業、解脱といった思想を受け継いだが、アートマンの存在を否定して、アナートマン(無我、非我)という立場をとった。さらにブラフマンのような宇宙の創造主を立てず、因縁正起(すべては因縁によって生じる)説で宇宙の生成を説明した。(P50)

 

「生まれ変わり」という発想

キリスト教公案

 門脇佳吉神父が書いた『公案と聖書の身読』という本があるそうです。

 

 

  これでは公案の解説がされていないと思いました。

 どうやらひとつの公案を提示して、それについて考えたことをエッセイ風に述べていくようです。

 初心者が知りたいのは〈公案の意味〉だと思うのですが…… 

無門関:その1

の二則「百丈野狐」の解説を読むと、野狐=真の自己(仏性)と解釈するのがいいようです。なるほど……そう考えれば、「悟った人でも因果に落ちますか?」という質問の意味がわかります。

 黄檗が百丈の横っ面を張ったのも納得できます。

 

 

 もうひとつ、公案の解説を見てみます。

5 笑う禅僧……『無門関』第六則「世尊拈花」

  お釈迦さまが霊鷲山で説法されたとき、市枝の花を取って、みなに示した。誰もが黙ってしまったが、迦葉尊者だけがにっこりと微笑した。

 それが公案になっています。

 

じつは偽経

 この公案は『大梵天王問仏決疑経』という経典に出典があるそうですが、偽経だそうです。唐代には1074巻の偽経があったとP71には書かれています。

 禅宗では、

 さて、この経典は、淳熈15年(1188)に成立した『人天眼目』巻五の「宗門雑録」に見えるのが初出であるが、実際にその経典を見たものはいないという。(P72)

「禅は笑いの宗教である」

 日本語では「わらう(笑う)」と「えむ(笑む)」はまったく別の言葉なのである。

 この「わらう」と「えむ」の違いを明確にしたのは、柳田国男であった。柳田によれば、「えむ」は「わらう」の未完の形態ではない。「えむ」は「ひびが入ること」であり、「わらう」は「割る」から派生したのであろうが、両者のあいだには決定的な相違点がある。それは「わらう」には必ず声があるが、「えむ」には声がないという点である。

 ゆえに迦葉尊者はにっこりとほほえんだのではなく、かすかに声を立てて笑ったことになる。……略……(P75)

西洋にあって笑いとは……

 アンリ・ベルクソン(1859~1941)の「機械化された個人に対する社会の制裁」やマルセル・パニョル(1859~1974)の「勝利の凱歌」という笑いの定義がある。……略……

 P76は、〈笑いとはなにか〉という話になっている……それも重要なことなのですが……P77に、禅の笑いは懸絶している

の項が設けられていて、

……迦葉は世尊を、さらには花をさし出すという世尊のわざとらしく、悟り臭い振る舞いを笑っている。

 くわえて、そのような形でしか表現伝授できない仏法を笑っている。ついにはそれを見て笑うしかない自分自身をも笑っているのである。(P78)

 と書かれているのです。これは笑いの分析で、そういう公案がなぜできたのかの解説ではないように思いました。

 

 

            *            *

 

  後の公案についてざっと斜め読みしてみたのですが、公案をめぐるエッセイのようなものが続きます。それで「公案とはなにか」というぼくの疑問は解決できませんでした。もっと初心者向けの禅の本のほうがいいようです。また入門書を図書館で探して読んでみます。

 

 今回は、ぼくの疑問とたまたま合わなかったというだけで、本の内容とは無関係です。一定の禅の知識を持ち、宗教学の知識もあれば楽しめるでしょう。そんな感想で……ごめんなさい。 

 

 

 

 

 

  …………      …………      …………      …………

 

      読んでいただいてありがとうございました。 

      誰もが穏やかで、幸せでありますように。