日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

社会の底辺で生きてきて68歳になりました。貧困や社会保障から落ちこぼれる人のために、社会が動いてくれたらいいのですが……いつも、自己中で理不尽なヤクザな強者が勝ちます。それが世の習いでしょうか? 〈自分を救うのは何か〉考えています。ネガティブなものも肯定する視点を持ちたい。いまはブログがあるので寂しくありません。訪問してくださる人に感謝しています。ありがとうございます。コメントをいただいたときは、その方のブログのコメント欄にお返事しますね。

『仏教思想のゼロポイント』の続き

 おはようございます。

 5時前でまだ雨は降っていません。天気予報では6時には大雨のマークが出ています。たしかに曇り空です。 

 

 森田童子さんが4月24日に亡くなっていたことを知りました。

 ぼくらの時代を歌った人でした。その歌はいつまでも心に残っています。

 ご冥福をお祈りします。 

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 今週から月木の週2回発行にします。すっかり読書ブログになっていますが、それが適当なペースと考えたのです。よろしくおねがいします。

 

 先週の続きです。5章目から読みます。なるべく簡潔にまとめたいと考えています。

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

  目次

はじめに

1章 絶対にごまかしてはいけないこと――仏教の「方向」

    仏教は「正しく生きる道」?    田を耕すバーラドヴァージャ

    労働(puroduction)の否定     マーガンディヤの娘

    生殖(reproduction)の否定      流れに逆らうもの  

    在家者に対する教えの性質     絶対にごまかしてはならないこと

    本書の立場と目的         次章への移行

2章 仏教の基本構造――縁起と四諦

    「転迷開悟」の一つの意味     有漏と無漏

    盲目的な癖を止めるのが「悟り」  縁りて起こること

    基本的な筋道   苦と無常    無我   仮面の隷属

    惑業苦    四諦     仏説の魅力   次章への移行

3章 「脱善悪」の倫理――仏教における善と悪

    瞑想で人格はよくならない?    善も悪も捨て去ること

    瞑想は役に立たない        十善と十悪

    善因楽果、悪因苦果        素朴な功利主義

    有漏善と無漏善          社会と対立しないための「律」

    「脱善悪」の倫理         次章への移行

4章 「ある」とも「ない」とも言わないままに――「無我」と輪廻

    「無我」とは言うけれど      「無我」の「我」は「常一主宰」

    断見でもなく、常見でもなく    ブッダの「無記」

    「厳格な無我」でも「非我」でもない

    無常の経験我は否定されない    無我だからこそ輪廻する

    文献的にも輪廻は説かれた     輪廻は仏教思想の癌ではない

    「無我」と「自由」        次章への移行

5章 「世界」の終わり――現法涅槃とそこへの道

    我執が形而上学的な認識に繋がる? 「世界」とは何か

    五蘊・十二処・十八界       「世界」の終わりが苦の終わり

    執着による苦と「世界」の形成   戯論寂滅

    我が「世界」像の焦点になる    なぜ「無記」だったのか

    厭離し離貧して解脱する      気づき(sati)の実践

    現法涅槃             次章への移行

6章 仏教思想のゼロポイント――解脱・涅槃とは何か

    涅槃とは決定的なもの       至道は無難ではない

    智慧は思考の結果ではない     直覚知

    不生が涅槃である         世間と涅槃は違うもの

    寂滅為楽    仏教のリアル   「現に証せられるもの」

    仏教思想のゼロポイント      次章への移行

7章 智慧と慈悲――なぜ死ななかったのか

    聖人は不二   慈悲と優しさ   梵天勧請

    意味と無意味  「遊び」     利他行は選択するもの

    多様性を生み出したもの   仏教の本質   次章への移行

8章 「本来性」と「現実性」の狭間で――その後の話

    一つの参考意見          「大乗」の奇妙さ

    「本来性」と「現実性」      何が「本来性」か

    中国禅の場合           ミャンマー仏教とタイ仏教

    「仏教を生きる」ということ

おわりに

 

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5章 「世界」の終わり――現法涅槃とそこへの道 

我執が形而上学的な認識に繋がる?

 相応部経典の「無記相応」にブッダとヴァッチャ姓の遊行者との対話がある。そこでブッダ十無記をいう。経典には「五蘊を我である」と思うことから形而上学的な認識が出てくる……と書かれてある。 

「世界」とは何か

 ブッダは世界をどう考えていたか?

『ローカーャティカ経』によると六根六境(眼耳鼻舌身意と色声香味触法)の認知の全体として考えていたとわかる。

五蘊・十二処・十八界 

 ブッダは、十二処によって一切は構成されていると考えた。五薀・十二処・十八界は認知の内容を分類したものだ。認知に我執を持つことが、なぜ形而上の認識につながるのか。

「世界」の終わりが苦の終わり

『ローヒタッサ経』に描かれている「空間を移動(旅行)することで世界の終わりに行けるか」という問に、ブッダは「行けない」と答える。「世界の終わりは空間的な移動ではなく、この身体に求められるべきである」

執着による苦と「世界」の形成

 苦も六根六境への執着を原因として生じている。

戯論寂滅

『マハーコッティタ経』でサーリプッタとマハーコッティタとの対話が描かれる。「六触処が滅尽した時、他のものは存在しますか?」という質問に対して、サーリプッタは、六触処が機能する限り「分別の相」が機能するのだし、分別の相が機能する限り、六触処が機能するのだという。この分別は翻訳で「戯論」とされている。つまり、本来は分別されないものを分別されると考えることが迷妄になる、ということである。

我が「世界」像の焦点になる

 私たちは感覚=認知をありのままでは受け取らず、自分のイメージする物語の世界を作ってしまう。生来の傾向としての「渇愛」を持っている。

なぜ「無記」だったのか

  我執がとれて分別の相(戯論)が寂滅してしまえば、その仮象も終わりになる。この事情はブッダが無記の態度をとった他の問いに対しても同じである。

厭離し離貧して解脱する

  これで「現法涅槃」の内容が明らかになった。

気づき(sati)の実践

 スッタニパータにおいて、煩悩の流れを堰き止めるのは〈気づき sati 〉である。これは現状に自覚的であることだとシンプルに考えて構わない。歩いている時は「歩いている」、立っている時は「立っている」とその身体においての現象を観察するという実践である。

 現法涅槃

  この気づきの実践で、修行者は無常・苦・無我の三相を洞察し、そうした苦なる現象を離れて執着することがなくなる。現象を実体視することがない。

……つまり、無常・苦・無我の現象を誤って実体視し、物語を形成して、そこで終わりのない不満足(苦)のサイクルに絡め取られることがなくなるわけだ。(P128)

6章 仏教思想のゼロポイント――解脱・涅槃とは何か

ゴータマ・ブッダとその弟子たちに、そのように決定的で明白な実存の転換をもたらした解脱・涅槃、その瞬間に起こった経験の性質とは、いったいいかなるものであったのか。(P133)

 

  ……ブッダとその下で「解脱知見」を得た弟子たちは、この渇愛の「完全かつ決定的な滅尽」を達成し、だからこそ「為されるべきことは為された」と自覚したのだということになる。そして、それは事態の性質上、ある時点で明白に経験される実存(のあり方)の転換であり、その自覚なければならない。(P135)

       

 既に述べたように、欲望によって織り上げられた「物語の世界」は凡夫にとって「現実」であり「事実」そのものだから、「実際にはそうでないはずだ」といくら自分に言い聞かせても、それで本当に認知が変わるわけではない。「恐怖は無意味だ」と「理性的に考える」ことによって、暴力を前にした時の身体の硬直を止めることはできないのと同じである。

 そのような「物語の世界」を打ち破るためには、既に「事実」や「現実」として成立してしまっているものを、ある種「強引に」乗り越える意識の変化が必要なのであって、それをもたらすのが定の強烈な集中力なのであり、だから禅定は智慧の前提なのである。

 さらに言えば、禅定というのは特定の対象に意識を集中(サマーディ)させる実践であり、……略……(P138)

 

 P140では、アーナンダとシーハーという比丘尼の解脱体験が語られています。

 ……ブッダの仏教における「悟り」や解脱が、瞬間的にもたらされる実存の転換であり、「直覚知」であることを、明確に示している例である。(P141)

 

 不生が涅槃である

  • テーラワーダ仏教では、それを不生不滅である涅槃という対象を、心が認識する経験と捉えている。
  • 生成消滅する無常の現象において苦を経験しているのが凡夫の現状であるわけだから、そこから解脱した涅槃の風光は、不生であり常であり楽であるというわけだ。(P143)

世間と涅槃は違うもの

  • このテーラワーダ仏教の涅槃の把握は、現代日本では「涅槃の実体視」ということで否定されるのが常だ。このような「神秘的な要素」は否定しておいたほうが「仏教は科学的で合理的だ」と主張するには都合がいいという事情があるのだろう。(P144)
  • 涅槃を世間(現象)とは別に考えず、「いま・ここがそのまま涅槃である」という解釈のほうが、日本人には人気がある。(P145)
  • しかし、解脱を究極的に据える教理の体系において、世間と涅槃の区別が明示されることは、全く自然であると私は考える。(P147)

寂滅為楽 

  •  ミャンマーの瞑想センターの説法に、「苦諦も聖諦なのだ」というものがある。修行者が涅槃を覚知した時、縁生の現象とは別のものとして、不生であり無為である涅槃を知り、それが「最高の楽」であるとわかった時、「生起するすべての現象が苦」であることを、ほんとうの意味で理解する。

仏教のリアル 

  •  不生であり無為であり、常であり楽であるとして涅槃を捉えるテーラワーダ的な解釈は、しばしば「涅槃の実体視」であるという批判を受ける。
  • 涅槃は分別の相の存在しない境地である。それが実体であるかどうかなどを論じることにも意味はない。
  • ブッダは涅槃を知り渇愛を滅尽し「これが最後の生であり、もはや再生することはない」と自覚した。
  • ところが、不生であり無為である涅槃の領域を認めず、場合によっては輪廻転生まで否定してしまう人たちは、ここで無理な解釈を強いられる。……略……「不死」の境地や、老病死の苦からの解脱などは、あくまで「比喩」であるか、あるいはせいぜい「見方の変化」を意味すると、考えざるを得なくなるわけだ。(P152)

「現に証せられるもの」

  ここは非常に大切なところで、この点に関する無理解から、現代日本に見られる仏教に対する誤解の多くも起こっているように思われるので何度でも書くが、渇愛は凡夫に対しては「事実」として作用しており、それが彼らにとっては「現実」そのものであるところの、「世界」を形成してしまっている。ゴータマ・ブッダの教説が当時の真剣な求道者たちに対しても説得力をもったのは、彼がそのような「世界=苦」の原因を渇愛であると特定し、それを自分は滅尽したと宣言した上で人々にもその方法を教え、そして弟子たちがそれを自ら実践してみると、本当に「世界」が終わって苦が滅尽した――あるいは少なくとも、そのように確信することができた――からである。

 さきほどの喩えに即して言えば、ゴータマ・ブッダは「見方を変えれば強さに意味はない」とか、そういうごまかしを言ったわけではなくて、実際に自ら「強く」なった上で、五比丘の間違ったトレーニング法(苦行)とは異なった正しい鍛錬の仕方を示し、「これをやれば、お前たちも私と同様に強くなれる」と言ったののである。そして、実際にやってみたら言われたとおりの結果が出たから、五比丘も他の同時代の真剣な求道者たちも、ゴータマ・ブッダにしたがったのだ。(P155)

 

……残る問題はそのような無為の涅槃の覚知が実際に起こるのかどうかということになるがろうが、これについてはテーラワーダの瞑想センターで、上座部圏のみならず、世界中から集まった実践者たちが、いま・この時も「現に証し」続けていることである。(P156) 

 仏教思想のゼロポイント

  では、涅槃の経験それ自体についてはどうか。ウ・ジョーティカはこう言う。

  涅槃とは一つの経験です。

  その瞬間には、対象と観察が停止する。

  その二つのものが停止するのです。

  瞑想者には、全てが終焉したように感じられます。

……略……

その時には対象と観察、即ち、継起する現象の認知が消失してしまう。現象の認知がないのに「経験(exerience)」があるというのは理解の難しいことだし、「推論の領域を超えた」ことだ。だから「経験」の内実について、言葉で語ることは不可能である。ただ言えることは、それが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだけだ。

 本書の表題である「仏教思想のゼロポイント」とは、ここのことである。(P160)

7章 智慧と慈悲――なぜ死ななかったのか 

聖人は不二

 ゴータマ・ブッダも中国思想に言う聖人ではないけれども、現象の無常・苦・無我を如実知見して、欲望によって織り上げられた「世界」を終わらせた人ではある。現法涅槃に住していて、分別の相を滅尽した彼にとっては、現象はただ継起しているのみであって、そこに渇愛に基づいた物語の形成はなかったはずだ。だが、そうであるならば、なぜ彼は悟後にそのまま死ぬのではなく、解脱の楽を独り味わうことに安住せずに、そのような「物語の世界」への再度の介入、即ち、衆生に対する仏教の宣布をはじめたのか。(P165)

慈悲と優しさ

 彼が説法を決意したのは、「衆生へのあわれみの心(悲心)によって」世界と衆生を観察したのがきっかけ。慈悲――それは現代理解されている単なる「優しさ」というようなものではない。(P166の勝手なまとめ)

梵天勧請

意味と無意味  

「物語の世界」に積極的に介入していく利他の実践(慈悲)と、そのような「世界」を縁起の法則にしたがって継起するだけの中立的な現象として観ずる捨の態度(智慧)という二者の乖離は、仏教について真剣に「考える」者が、必ず当面することになる難問題である。(P170)

「遊び」

……正負いずれの方向の執着からも離れることこそが、解脱の内実だからである。それは、「意味」からも「無意味」からもともに離れることによって、はじめて「物語の世界」を終わらせることができるのと同じことだ。(P175)

利他行は選択するもの 

(P175~179までは利他行についての考察が書かれています)

……覚者が慈悲の利他行へと踏み出して、「物語の世界」への再度の関与を行うかどうか、そして、それをいかに・どの程度のレベルで行うかということは、基本的に「自由な選択」の問題であるということである。(P179)

多様性を生み出したもの

……単に広い地域と長い歴史にわたって存続してきたというだけではなくて、その内に驚くべき思想的な多様性を含むのも仏教の特徴だ。例えば日本の現存する宗派についてざっと考えてみるだけでも、そこには禅あり浄土あり真言あり法華ありと、奉ずる経典も語る教説も行う実践も異なる様々なセクトが並び立っている。(P180)

仏教の本質  

  仏教の本質は、「世界」を超脱した無為の常楽境を知った上で、そこから敢えて、物語に再び関与しようとすることにある。(P184)

8章 「本来性」と「現実性」の狭間で――その後の話

一つの参考意見

  • ゴータマ・ブッダ入滅後の仏教史が、本書の視点からはどのように見えるか。

「大乗」の奇妙さ

  • 大乗というのは奇妙な論理に依拠した宗教運動である。
  • 苦から解脱という自利を追求する阿羅漢ではなく、一切衆生を広く救済する自利・自他の完成者としてのブッダになることを目標としている。
  • これはよく考えてみればおかしな論理だ。ブッダはすでに苦から解脱するための方法を、私たちに開示してくれている。ならば弟子としてすべきことは、その方法を他者に伝え、また自ら解脱するということでなければならない。
  • 利他行を主にやりたいだけならば、そういう目的の宗教を別に作ればいい。新しい経典を制作してまで、自らの立場を「仏教」だと主張する必要はない。

「本来性」と「現実性」

  • 「寂滅為楽」無為の寂滅境である涅槃こそが本来のものだ。
  • それよりも、「物語の世界」にある衆生に働きかけるのを優先することは、成仏を無限の未来にして現在は菩薩としての活動を正当化することであり、「涅槃」と「世間」の区別をなくしてしまうことだ。

何が「本来性」か         

中論』のように世間と涅槃(出世間)の区別を無効化する立場をとるなら、世間諦と出世間諦の区別も当然無効ということになるし、それに応じて、把握される「本来性」の内実も変わってくる。(P195)

中国禅の場合

  • 唐代の禅――馬祖の「即心是仏」というのはブッダの教説をある側面では正しく引き継いでいる。
  • 宋代の禅――大慧宗杲により創出された「看話禅」で禅問答が切り取られ公案になってしまった。ただ頭のなかで理解するだけでは「物語の世界」から一歩も出られず、自己も変化することはない。
  • それぞれの仏教者による見解の相違に関しては、あるものが「正しく」て、あるものが「間違っている」と判定する態度よりも、時代背景や個人の資質を検討した上で参考とする態度がいいのではないか。

ミャンマー仏教とタイ仏教

  • ミャンマーの仏教は基本的に聖典のテクストを遵守する保守的な性格のもので、ここでのテーラワーダ的な涅槃の解釈に従って実践を行う。
  • タイの仏教徒にとって涅槃というのは、瞑想における特定の状態というよりも、日常生活において意識がいま・ここへの気づきを保っていて、そこに貪・瞋・癡の煩悩が混入していない状態と認識されている。
  • ミャンマーの僧院では修行者にいわゆる作務をやらせることはない。「余計なことはしないで、瞑想だけに集中せよ」ということ。
  • タイでは瞑想者にも、掃除や小屋の修理などの作務をやらせることが多い。

「仏教を生きる」ということ

 さて、このように「本来性」と「現実性」との関係が多様な仕方で把握される過程として仏教史を眺めてみるならば、そのうちのどれか特定の立場だけを「正しい仏教」であるとし、それ以外は「間違った仏教」であると断定することに、さほど重要な意味はなくなってくるのではないか。(P202)

  • 仏教が伝えられた中国では、ブッダの直説に近い阿含経典は基本的に「小乗」の考えとされた。「大乗」の経典が高い評価を受けて広まっていた。日本でもこの価値判断は踏襲されてきた。

  現代の私たちが知っている仏教は、「本来性」に自足して「現実性」を忘れることも、「現実性」にただ埋没して「本来性」を知らずにいることも、どちらもゴータマ・ブッダと同様に、敢えて拒否した覚者たちによって、形成されたものである。そして、それが圧倒的な多様性を有することになり、その結果として日本にまで伝わったのは、他者や同胞からいかなる批判を受けようと、「本来性」と「現実性」との関係のとり方について、時代や地域の文脈を引き受ける形で、自ら新しく語り直す志をもった覚者たちが、常に存在し続けてきたからだ。(P204)

               

    

              *            *

 

 ふう~、やっと読み終えました。

 仏教用語の海のなかで文脈を辿らなければならなかったので、頭がくらくらしました。テーラワーダ仏教の教説がすこしわかった気がしています。

 ただ、教義に忠実であればあるほど部外者にとっては難解になって……伝えにくくなるのではないでしょうか。

 著者の小乗仏教の立場からいうと、いい加減で適当なぼくのような理解の仕方では〈仏教〉に値しないのだなと……そんな感想を持ちました。

 

 仏教は〈生きる方法〉を実践する哲学です。2500年もの長い間、インド、中央アジア、東南アジアと日本で信仰され、それぞれ理論も実践も変わって来ました。それでも根本の原理的な教えは変わらず受け継がれている気がします。 あまり難しく考えず、適当な余裕を持ったほうがいいのではないでしょうか。そのほうがお釈迦さまの慈悲にもあっているような気がします。

 

  今回は理論の直球でしたが、また違う形で仏教にアプローチしたいと考えています。

 

 

  …………      …………      …………      …………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。 

 誰もが穏やかで、幸せでありますように。