日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

底辺で生きてきて68歳になってしまいました。後悔することが多かった人生ですが、しかたがないです。自分なりの仏教を信じているのでなんとかやっています。訪問していただいて感謝しています。m(__)m

『仏教思想のゼロポイント』 / 「苔」

 おはようございます。

 雨が降り始めました。午前中は雨です。傘をさして外に出たら、すこし寒い。

 

  

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 月曜日は〈仙教の悟り〉、水曜日は〈禅宗の悟り〉の本を読みました。

 今回は〈小乗仏教の悟り〉について学びます。著者はミャンマーテーラーワーダ仏教の行学(教理と実践)を学んだ、と紹介されています。 

魚川祐司 - Wikipedia

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 目次

はじめに

1章 絶対にごまかしてはいけないこと――仏教の「方向」

    仏教は「正しく生きる道」?    田を耕すバーラドヴァージャ

    労働(puroduction)の否定     マーガンディヤの娘

    生殖(reproduction)の否定      流れに逆らうもの  

    在家者に対する教えの性質     絶対にごまかしてはならないこと

    本書の立場と目的         次章への移行

2章 仏教の基本構造――縁起と四諦

    「転迷開悟」の一つの意味     有漏と無漏

    盲目的な癖を止めるのが「悟り」  縁りて起こること

    基本的な筋道   苦と無常    無我   仮面の隷属

    惑業苦    四諦     仏説の魅力   次章への移行

3章 「脱善悪」の倫理――仏教における善と悪

    瞑想で人格はよくならない?    善も悪も捨て去ること

    瞑想は役に立たない        十善と十悪

    善因楽果、悪因苦果        素朴な功利主義

    有漏善と無漏善          社会と対立しないための「律」

    「脱善悪」の倫理         次章への移行

4章 「ある」とも「ない」とも言わないままに――「無我」と輪廻

    「無我」とは言うけれど      「無我」の「我」は「常一主宰」

    断見でもなく、常見でもなく    ブッダの「無記」

    「厳格な無我」でも「非我」でもない

    無常の経験我は否定されない    無我だからこそ輪廻する

    文献的にも輪廻は説かれた     輪廻は仏教思想の癌ではない

    「無我」と「自由」        次章への移行

5章 「世界」の終わり――現法涅槃とそこへの道

    我執が形而上学的な認識に繋がる? 「世界」とは何か

    五蘊・十二処・十八界       「世界」の終わりが苦の終わり

    執着による苦と「世界」の形成   戯論寂滅

    我が「世界」像の焦点になる    なぜ「無記」だったのか

    厭離し離貧して解脱する      気づき(sati)の実践

    現法涅槃             次章への移行

6章 仏教思想のゼロポイント――解脱・涅槃とは何か

    涅槃とは決定的なもの       至道は無難ではない

    智慧は思考の結果ではない     直覚知

    不生が涅槃である         世間と涅槃は違うもの

    寂滅為楽    仏教のリアル   「現に証せられるもの」

    仏教思想のゼロポイント      次章への移行

7章 智慧と慈悲――なぜ死ななかったのか

    聖人は不二   慈悲と優しさ   梵天勧請

    意味と無意味  「遊び」     利他行は選択するもの

    多様性を生み出したもの   仏教の本質   次章への移行

8章 「本来性」と「現実性」の狭間で――その後の話

    一つの参考意見          「大乗」の奇妙さ

    「本来性」と「現実性」      何が「本来性」か

    中国禅の場合           ミャンマー仏教とタイ仏教

    「仏教を生きる」ということ

おわりに

 

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 なぜ、こんなふうに項のタイトルも含めた目次を書いたのかというと、目次というのは文章の要約だからです。項のタイトルは、文章の要約です。

 目次を見ただけで、「なんか難しそうなことだな」という気持ちがしました。

 言葉の定義とか意味とかを明らかにして、論理的に組み立てていくんだろうな、と。その通りでした。論文的文章が続いています。

「難しい言葉を使ったからといって、ほんとうのものに到達するのか」という疑いが、自分のなかにはあります。難解な哲学的言辞は苦手なのです。

 しかし、仏教哲学というのは西洋哲学以上に言葉にこだわり、定義し、解明しています。仏教を学ぶ以上、仏教用語を理解は必要です。

 

  

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「はじめに」を読んでみました。

  • 本書は仏教を「わかる」ための本である。知識ではなくて、知識を相互に関連づけて統一的に理解することを目的としている。
  • 仏教徒は何を目指していたのか。ブッダは「解脱」をめざし「悟り」を得た。
  • それに習う仏教の目的は、「悟りとは何か」を明らかにすることではないか。
  • 本書は、解脱・涅槃について考察する。

 二つの問いを立てる。

  1. ブッダの言う解脱・涅槃とは何か。
  2. ブッダは「悟った」後、なぜ死ななかったのか。

 

 前半の4章はこの二つの問いについて考察するための準備として、仏教を「わかる」ためには理解しておくことの不可欠な諸前提や諸概念について、その内容を整理しつつ解説する。(P4)

 1章……前提について指摘し、基本的な立場を示す。

 2章……縁起と四諦の説を中心に解説する。

 3章……仏教における善と悪の問題について考察する。

 4章……「無我」の内実と輪廻の関係を解説する。 

 5章、6章で、問いの1の回答が提示される。

 7章で、問いの2の回答が示される。

 8章は、仏教史に関して書く。

という構成だということです。何が書かれているのか、すこしわかりました。

 

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  何度もいいますが、自分は衒学的な解説や言葉の定義は苦手なのです。言葉はどうでもいいから、どうすれば幸せになったり、穏やかにいられるのか、知りたい。そのために本を読んでいます。

1章 絶対にごまかしてはいけないこと――仏教の「方向」
  1. スッタニパータは一番古い聖典で、煩雑な教理はなく〈人間として正しく生きる道〉が対話のなかで語られている、とされている。
  2. 「3 犀の角」の次に「4 田を耕すバーラドヴァージャ」の話がある。ブッダは托鉢で、バーラドヴァージャに「私は耕作した後に食べている。あなたも耕作した後に食べなさい」と言われる。それに対してブッダは「わたしも耕作してから食べているのだ」と応ずる。「それはどういうことですか」と問い返すバーラドヴァージャに対してブッダは「わたしにとっては、信仰が種子であり、苦行が雨である。智慧はわが軛と鋤である。……」と答える。
  3. その偈を喜んだバーラドヴァージャが乳粥を鉢に盛って差し出すと、ブッダは「わたしは詩を唱えた報酬として得たものを食べてはならない」と言って、それを捨てさせるエピソードが描かれる。
  4. ブッダの時代、出家者には労働は禁じられていた。労働生産の行為は禁じられていた。
  5. 4章は「マーガンディヤ」の話。ブッダに婿になってくれるよう頼んだ際に、手ひどい言葉で断るエピソードが書かれている。
  6. 生殖の否定、淫欲の否定が戒律だった。
  7. 『聖求経』には〈流れに逆らうもの〉という偈がある。「世の中の人びとは欲望に夢中になって、それを喜び楽しんでいるのだから、自分の教えは理解されないだろう……」
  8. この後に梵天勧請があった。ただ、注意しておかなければならないのは、その際の説法の対象としていたのは、「語れば理解することのできる一部の人間(衆生)」のみであって、全ての人間を対象とするものであるとは、少なくとも、ブッダは考えていなかったということである。
  9. 「在家者に対する教えの性質」では、在家の者には労働と生殖を禁じてないといえる。ただ、ブッダの仏教の目標は修行者を解脱・涅槃に至らせることであり、そのために労働と生殖の放棄が要求されることになる。
  10. 「絶対にごまかしてはならないこと」はこうである。ブッダの教説は修行者に労働と生殖の放棄を求めるもので、現代では、いわば「異性とは目を合わせないニートになれ」というようなもので、いま考えられているような「人間として正しく生きる道」とは違うだろう。むしろそのような観念の前提になっている「人間」とか「正しい」を否定する作用を持つものであったのである。
  11. 以上を理解することが「本書の立場と目的」になる。いま仏教について流行している柔らかで優しい理解を全面的に「悪い」というつもりはない。ただ、それはブッダについて適切な評価でない。仏教の危険であると同時に魅力的な部分を隠した理解の仕方だと思う。
  12. 大切なことは〈世の流れに逆らう〉実践を行ってまで目指した、仏教の解脱・悟りの境地とは何か、ということだ。

 

 自分なりに1章をまとめてみました。

 前の項での要約が、次の項に引き継がれて文章が展開しています。最初、目次を見ていて難しく感じたものが、つながっていることがわかりました。 

 

2章 仏教の基本構造――縁起と四諦
  1. 煩悩によって迷いの状態に置かれていることを有漏という。汚れていない状態は無漏である。
  2. 人は頭で正しい理屈を知ったとしても、習慣的な行為をやめるのは難しい。仏教で〈修行〉が必要とされるのはそのためである。テーラワーダでは「気づき(sati)」の実践をする。迷いがないのが「悟り」だ。
  3. 仏教の中心の思想は縁起である。
  4. ものごと・現象は、すべて原因(条件)よって形成された一時的なもので、実体はない。原因によって生じたものごとは全て滅する。
  5. 私たちが迷い、苦の現状にあっても、原因・条件(因縁)を消滅させることができれば、この苦から脱却できる。
  6. ブッダはすべての現象は苦である、と言った。無常・苦・無我である。これを認識すれば輪廻という〈繰り返される生の不満足〉を脱することができる。
  7. 無我とは――「それは私のものではなく、私ではなく、私の我(本体・実体)ではない」ということ。所有物ではないということは、私がコントロールできないものであるということだ。
  8. 苦であるものは無我である。
  9. 私たちは普段、自分が「思い通りに」振る舞っていると思っているが――その「思い」そのものが、様々な条件に従って「ふと浮かんできたもの」なのだ。欲求や衝動に、それ以外のものを知らないから、従うしかない。
  10. 凡夫の心が煩悩に汚されている(悪い癖がついてしまっている)のも、有漏の状態に置かれているのも、無我であるという縁起で説明できるのである。
  11. 業とは単純に訳せば「行為」もしくは「作用」ということになる。仏教の世界観では、私たちは過去に 積み重ねてきた無量の業の結果として存在している。煩悩と業の働きによって苦に陥っていることを「惑業苦」と呼ぶ。
  12. そこから抜け出す方法が「四諦」だ。「苦諦・集諦・滅諦・道諦」
  13. それがブッダの教説の中心である。苦の原因を見出し、その解決方法を教えることだった。そうすれば誰もがブッダのように解脱できるのである。
3章 「脱善悪」の倫理――仏教における善と悪 
  1. スピリチュアルが求められる時代――瞑想することの功利的な面が強調されたりして……そういう瞑想もあるだろうが…… 
  2. ブッダの解脱・涅槃を得るための瞑想は、そういうものではないだろう。
  3. 日本では大乗仏教の影響で、「悟り」は円満な人格完成者のイメージがある。
  4. 初期仏教でも十悪、十善が取り上げられ「善因楽果、悪因苦果」の縁起が説かれた……素朴な功利主義といえる。
  5. 仏教の本質は脱善悪で、反善悪ではない。有漏善(煩悩の影響下にある善)と無漏善(煩悩の影響下にない善)の定義もある。
  6. 仏教の倫理規範は二重構造と見ることができる。解脱・涅槃が最上の善としながら、世俗のなかでの善悪を認める素朴な功利主義の面を持っている。
4章 「ある」とも「ない」とも言わないままに――「無我」と輪廻
  1.  「無我」が仏教の基本教理であるのだが、「自分は存在しているじゃないか」といわれると、否定はできない。
  2. ブッダは「常一主宰」の我を否定した。それだ諸法無我である。私たちに認知できる世界の現象の一つ一つを取り上げて「無我」を説くやり方をした。
  3. 中村元は非我説で、厳格な無我説を信じる仏教者、研究者からは評判が悪いのだが……
  4. ブッダは「常見」「断見」において、どちらにも偏らない無記を選んだ。
  5. 「無と有」をめぐる議論に対しても、「中道」の立場をとった。

P92~100のまとめ

無我だからこそ輪廻する

  業と輪廻の世界観とブッダの仏教は切り離せない。無我だからこそ輪廻があると考えることができるのだ。 

何が輪廻するのか

  行為の作用と結果、即ち「業」という現象が続いていると考えるべきである。輪廻というと転生の物語ばかりを考えてしまいがちだが、そうではなく常に生起し続けているものだ。

現象の継起が輪廻である

 ミャンマーの著名なテーラワーダ僧侶のウ・ジョーティカは「精神的と物質的のプロセス」という。

文献的にも輪廻は説かれた

  無我と輪廻は矛盾しておらず、相互補完的関係にある。ブッダの解脱・涅槃も輪廻転生の世界観を前提としていて、そこから〈再生の非存在〉として語られることは当然といえる。

輪廻は仏教思想の癌ではない

 ブッダと輪廻説を切り離したい人びとは経典を切り刻んで解釈してきた。しかし仏教が究極的に輪廻の超克を目指している「現法涅槃」を説いている以上、とくに輪廻思想を信じたり実感したりしていなくても、仏教の実践を行い、自らの生のために活かすことは可能だ。

「無我」と「自由」

 ブッダの時代にマッカリ・ゴーサーラという「六師外道」の一人がいた。この人は人間の自由は存在しないという決定論を説いたとされる。ブッダは無我を唱え、我(主体)の絶対的、実体的な意味での存在については無記とした。

 

 

             *            * 

 

 長くなりましたので、来週の月曜日に続けることにします。

        

 

 

  …………      …………      …………      …………

 

    「苔」

 

緑に

生えた

土の表に

木の影が

まだら模様に

映る

光が

射している

苔の

ちいさな

尖った葉は

集まり

重なり

森のようで

箱庭の

山のようで

観ている者を

違う世界に

誘う

湿った

細い 

息の形の

風の

時間が

やってくる

 

 

 

 

 

  …………      …………      …………      …………

 

     読んでいただいて、ありがとうございました。 

     誰もが穏やかで、幸せでありますように。