日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

社会の底辺で生きてきて68歳になってしまいました。ここでネガティブなことも肯定できる視点を持ちたい。いまはブログがあるので寂しくありません。訪問してくださる人に感謝しています。ありがとう。

『歴史をつかむ技法』 / 「光」

 

 おはようございます。

 今朝は寒いですね。夢を見ていました。どこかに行こうとして駅にいたり、建物から出ていこうとしている夢。いまのままの自分じゃだめと思っているようです。

 

 四天王寺さんのしだれ桜がいっぺんに咲いてきれいです。

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 これからずっと暖かくなる。 

 

  

 

          *               * 

 

 

 歴史に興味があります。

 自分の育った国がどうしてこうなっているのか、知りたいからです。

 それで古代の、日本が誕生した時代のことなど読んできました。

 

 図書館の棚を見ていたらこの本に目が止まりました。

 歴史をどうみたらいいか書いてある。それで借りて来て読みました。

 

歴史をつかむ技法 (新潮新書)

歴史をつかむ技法 (新潮新書)

 

  著者は山本博文という方です。

 

 目次

序章 歴史を学んだ実感がない

1章 歴史のとらえ方

2章 歴史の法則と時代区分

3章 日本史を動かした「血筋」

4章 日本の変貌と三つの武家政権

終章 歴史はどう考えられてきたか

 

 

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 1章、2章がおもしろかった。「こう考えるのか」と思いました。

 

 3章は〈血筋〉というのがずっと重要な働きをしていた、ということ。皇統をどう継承してゆくか、が問題だったこと。

 

聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか」

  • 聖徳太子用明天皇の皇子で、母も欽明天皇の皇女穴穂部(あなほべ)です。しかし用明天皇は傍系の天皇だとみられていました。
  • ライバルとして直系の敏達天皇(びだつ)と王女広姫(ひろひめ)の間に生まれた押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのおおじ)がいたのです。
  • それで押坂彦人の即位を防ぐために、伯母で敏達天皇の皇后だった推古天皇が中継ぎとして即位することになり、厩戸はその下で政治を行いながら次代の天皇として豪族たちに認められることを狙った――推古天皇が死去すれば、その時は厩戸が即位することになったのでしょうが――聖徳太子は皇太子のまま没し天皇になることはありませんでした。
  • P128に天皇の継承図があります。

  中大兄皇子の「大化の改新」は天皇を中心とした中央集権国家を作るために必要でした。この頃、中国では随に変わって唐王朝が成立し国際関係が緊張していたからです。でも、それだけでなく中大兄皇子の権力欲もあるのでは……と書かれています。「壬申の乱」も起こる激動の時代です。

 

 誰が天皇を嗣ぐかということが、政治権力を手に入れることだったのです。

P138には、「長屋王の変」は直系であった長屋王の血筋を絶やすための聖武天皇の謀略で、冤罪事件だった、と書かれています。

 

 

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 この本のタイトルにもあるように、「歴史をつかむ技法」として、1章、2章が基本的な認識を与えてくれました。

 1章の「歴史のとらえ方」に書かれている――

歴史用語の基礎知識

 「幕府」という用語は、中国を起源としていて、出征中の将軍が幔幕を張って宿営することを指し、日本では近衛府近衛大将の居館を指す言葉になり、転じて武家政権を指すようにもなるのですが……一般に幕府と呼ぶようになったのは、江戸時代も末期になってからだそうです。

 歴史学では、鎌倉時代以降の武家政権の統治機構を「幕府」と呼ぼうと統一しているのです。

実際には、鎌倉幕府に相当する武士の政権のことを、朝廷では「関東」とか「武家」と呼んでいました。そして幕府側の武士たちも「幕府」とは言わず、頼朝や頼朝の政権を「鎌倉殿」と称しています。「殿」とはいわゆる御殿のことで、そこから転じて人の敬称にもなっていく語ですが、同様に室町幕府の将軍邸や将軍自身も、その屋敷のあった地名から「室町殿」と呼ばれました。(P30)

 

  こういう言葉の使い方がされていたことを知ることは、ぼくらが抱いている歴史に対する先入観を改めます。

 将軍と呼ばれることは少なく、[公方」と呼ばれていたこと。

 

 歴史では統一して使える用語が必要になるので、江戸時代末期に使われ始めた「幕府」という用語を使っているということです。

 じっさいに使われていた言葉と歴史用語には違いがあります。

 江戸時代には藩は使われていなくて、じっさいに「藩」が使われたのは明治になって「廃藩置県」のあいだの4年間だけでした。じっさいに使われていた言葉は「家中」でした。「島津家家中」と言われていた。町人からは薩摩様のご家中と呼ばれていた。この薩摩は藩ではなく、たんに領地の地名をいったものに過ぎないとか。

 歴史学においては「幕藩体制」とか「幕藩制国家」とかいう用語などあると便利なので、それで使われるそうです。

 

 P36には「老中」(ろうじゅう)という言葉は使われず、役職名は最初「御年寄」(おとしより)と呼ばれていたことが書かれています。

  そんな言葉の使い方をたどってゆくと、その時代の様子が想像できます。

 

 

          *               * 

 

歴史学は科学である」というトピックがあります。

 歴史学というのは、史料を重視するものでなくてはならない。歴史も「科学的思考」の積み重ね。そのことについては「裁判に例えて考える」とあります。

 歴史研究者は、基本的な手続きとして、ある歴史事象を描き出そうとするときには、関係する史料を探し出し、それを正当に読み解いて「史実」を明らかにし、さらに個々の史実がどのような意味を持つのかを「解釈」し、さらに解釈の集積として、時代像や人物像を「イメージ」します。イメージとは、たとえばある時代を「こういう時代であった」とか、ある人物を「こういう人物であった」などと評価することです。(P45)

 

 

 

 歴史のイメージについては、歴史小説や時代小説を読んで持つ影響も書かれています。エンターテイメントとじっさいの歴史は違うのですが、時代考証のしっかりしているものにはリアリティがあります。そういうことがわかっていて楽しむのはいいこと。

 

 

 P82では、「歴史に法則があるか」ということについて、岡田英弘さんの……

歴史は偶然の事件の積み重なりで変化する。しかしその変化を叙述する歴史のほうは、事件のあいだに一定の方向を立てて、それに沿って叙述する。そのために一見、歴史に方向があるように見えるのだ。

 という言葉を紹介されています。

 これは歴史をマルクス主義的な法則によって考えてきた歴史学への批判としてあるようです。

 

 

 歴史というものについて、けっこう先入観を持っているな、と気づかせてくれる本でした。

 

 

 

 

 

 

………………     ………………     ………………     …………

 

 

   「光」

 

朝の

光は

どこまでも

届くだろう

悲しい

記憶や

過去の

後悔を

柔らかく

つら抜いて

青だけが

空に

あふれる

深い

苦しみや

惨めなことが

あっても

人と人は

わかりあえる

 

 

 

 

 

………………       ………………       ………………     

  

    読んでいただいて、ありがとうございました。

    誰もが穏やかで、幸せでありますように。