日の記し ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。☆彡 ・☆

社会の底辺で生きてきて68歳になりました。後悔ばかりの人生でしたが、それもしかたがないことです。〈初期仏教〉を信じているので、なんとか暮らしています。訪問していただいて感謝しています。ありがとう。<m(__)m>

『科学者が読み解く日本建国史』 / 「朝」

 こんにちは。

 今日は建国記念の日ですね。

 前に『やまとごころとは何か』という本を読んだのですが、それから、日本というのはどういうふうに誕生したんだろう、と思って日本の古代史についての本を図書館から借りてきていました。日本はどういうふうにできたのか、興味があるのです。

 

 この本を、昨夜、読んでいました。 

科学者が読み解く日本建国史 (PHP新書)

科学者が読み解く日本建国史 (PHP新書)

 

  遺伝子情報(Y染色体ハプロタイプ)の解析で人類の移動を推測して、『史記』に書かれたことや『古事記』『日本書紀』に書かれたことの意味を探る、科学の視点から歴史を考察した本です。

 

 染色体の話から入ってゆくから難解に思うんだけれど……いったん道筋が決まれば、それにそって考えていけばいいので簡単です。

目次

遺伝子人類学 ……最先端医学 遺伝子のゆらぎ 複雑系科学

文明の担い手 ……『史記』 新石器時代の文化 父系社会への移行

中国古代王朝 ……夏王朝  商(殷)王朝 殷周革命

弥生の民   ……縄文と弥生 線形思考の弊害 弥生前夜考

出雲と邪馬台国……遼河文明 出雲神道 姫姓王家

聖文神武   ……神武東征 八神殿 中臣神道

鯉と龍    ……女神の民 徳治の国 登竜門 龍と鯉

 

 

  アフリカで最初に誕生した人類、アダムの遺伝子は、グループ A。

 東アジアに到達したグループは C と D 。

 C が主体となっている国はモンゴルで、D が優位の国は日本とチベット。(P44)

 F はコーカサス付近で登場する。これは〈二人目のアダム〉と呼ばれる。

 この二度目の拡散で、N と Oが東アジアに広がった。

 

 そういうことを考えると日本人のルーツが見えてくるのです……

 でも、人類はもともとひとつの夫婦から生まれたことを忘れないほうがいいと思う。遺伝子的なものも重要なように思いますが、むしろ、後からどんな文化の影響を受けたか、なんだと思うのです。

 

 こういう動画があります。

www.youtube.com

 

   

          *               * 

 

 古代、中国の中原ではに O3 が支配的だった。O1とO2は海岸部の民のグループとしてあった。それらが台湾、東南アジアへ移動した。 

 

日本人の遺伝子 ルーツ - YouTube で検索すると、

 

www.youtube.com

 というふうな日本を〈特別なものとみる〉ものもあるのですが、参考にする程度でいいと思います。これまで、縄文人を文化の低いもの、弥生人を稲作文化を持ってやって来たもの、という先入観で捉えられてきたから、それへの反発かもしれません。縄文人も稲作していた……と聞いたことがあるのですが……

 

 

 

           *               * 

 

 

 「文明の担い手」の章では、『史記』を読み込むことにより、氏族共同体の母系社会→父系への移り変わり……国という集団ができる過程を考察しています。

 

「中国古代王朝」の章では、遺伝子の形と王朝の変遷を語っています。

 

 このへんは『史記』を読んでいて、その知識がある者や中国の歴史に興味がある人にとっては新鮮な視点なんでしょうが……ぼくには、もうひとつでした。

 

 「弥生の民」の章に書かれていることは、日本人のY染色体のハプログループが縄文人的なDと、弥生人のOの集団に分類されるということが書かれてありました。もちろん、これは特徴ということなので、必ずしもそう分かれるということではないのです。

 ここで著者は、〈複雑系〉と〈線形〉という考え方をいいます。現在では情報は急速に解明されていくのですが、その情報がなにかを決定づけるわけではないということをいいます。ハプログループ解析は民族性を決定したりしない複雑系の情報だと理解しておく必要があるのです。

 

「弥生前夜考」では稲の遺伝子からわかったことが書かれています。大陸の長江河口、現在の上海付近のデルタ地帯から稲作が伝播してきたのだろうと推察します。

 また大陸の古代王朝がどういう遺伝子のグループによって作られてきたか明らかにしています。

 

 

「出雲と邪馬台国」には興味深いことが書かれていました。P117~119に。

後漢書』によると、箕子朝鮮は、紀元前195年、燕王盧綰(ろわん)の部将であった衛満に滅ぼされたとされる。敗れた最後の王、基準が、数千人を率いて南下し、馬韓を攻めて韓王になったとされる。

 陳寿の『三国志』、范曄の『後漢書』の記述を読むと、韓半島の南部、現在の韓国、かって三韓と呼ばれた地域は、様々な「亡命者」の辿り着いた地であったようである。(P117)

 

 越の滅亡によって博多に辿り着いた呉人の末裔は、さらに奥の、出雲、高志に送られた。

 

 時代は違うが、平安王朝は、百済高句麗の遺民に全く同じ処置をしている。先に辿り着いた百済の亡命者は滋賀方面に、後着の高句麗の亡命者は、関東方面に送り出しているのである。

 

 商(殷)の遺民をつれて黄河地域に逃れた遼河地域に逃れた其子は、さらに奥地の韓半島北部、朝鮮の地を開いた。それは、姫姓の王族に率いられた呉の遺民が九州北部に到達し、博多付近に奴国を開いたことと同義であろう。(P119)

 

 こういう記述を読めば、人の移動が〈国を作る土台〉になったのがわかります。歴史や文化は人の移動、交流によってもたらされるということが、P123からの「姫姓王家」を読むと納得できます。

 

 

           *               * 

 

「聖文神武」の章。

 ここでは『魏志倭人伝』から邪馬台国の位置を考察しています。邪馬台国は宮崎県にあったようです。P139。

 そして安本美典氏が提唱した天皇の即位年数解析法を基にして神武天皇の即位した年を、西暦282年前後と推察しています。

 ここから、神武が実存したことはもちろんのこと、「記紀」に記載された日本神話が神武王朝の成立過程を描いたものであり、卑弥呼天照大神に比定できる確立が高いことが理解される。

 邪馬台国が金印を賜ったのが、西暦239年である。

 卑弥呼天照大神と比定し、金印の恩賜を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨に比定して考えると、この時期に、邪馬台国宗主国としての地位固めを初めたことになる。神武が即位するまで、40年強程度の時間があったことになる。(P140)

 

 ここでは「記紀」の神武東征や、大国主命の国譲りを解明しています。

 大国主命が、新羅より渡来して商(殷)王朝の祭祀の礼を出雲にもたらした、商(殷)王朝神官系の直系子孫と考えられるので、事代主命が、神官家の嫡男であったと考えると話の筋が見えてくる。(P144)

 

 おっ、「記紀」をこういうふうにして読み解くのか、という新鮮な驚きがありました。

 

 天孫・出雲連合軍が神武王朝を作ったのが事実のようです。著者は神武に至るまでの家系図に、中国の王朝との関係を重ね合わせて考察します。「記紀」は神武天皇の正当性を明確にするという目的で書かれたもののようです。

 

記紀」の完成までの藤原、中臣、忌部の神官の家系の記述は興味深いものでした。(P154)

 

 最後の章「鯉と龍」はシンボルについての考察です。

 邪馬台国では、王でなく、卑弥呼が女神として統治したこと

 歴史の中の女神の役割。母親的なもの。

 儒教徳治主義

 鯉は龍という王を生み出す母性的なものの象徴としてあった。

 

 

 

          *               * 

 

 

 日本古代のことは、解明されていない謎も多くて、想像力を掻き立てられます。この本では違う「記紀」の読み方を学べた気がします。

 日本とは何か、を知ることは、国を知って、ひいてはこの国に住む人を知ることです。ルーツをたどって行くと、小さな争いごとなどは無意味に思えます。

 

 違う本も借りていているので、また続けて読んでいこうと思います。

 

 

 

 

 

………………     ………………     ………………     …………

 

 

   「朝」

  

林の向こうの

丘から

まばゆい

光の

かたまりが

上って

地平線は

明るくなり

紫に

染まる

空の

半分は

黄色に

変わって

雪原に

並んだ

木々の

影が

薄く

長く

足元まで

届く

 

 

 

 

 

 

………………     ………………     ………………     …………

 

 

     読んでいただいて、ありがとうございました。

     誰もが穏やかで、幸せでありますように。