日の記し   ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。・☆彡 ・☆

社会の底辺で生きて来て67歳になってしまいました。そこから見える風景や、読んだ本の感想や、ネット検索でわかったことなどを書きます。生きることは辛いこともありますが、何をしても生きて行ける。仏教を生きる支えにしているので、そのことも書きたいです。リンクを貼らせていただくサイトの方々に感謝します。

『アジア主義』 を読む 4 / 「秋」

 おはようございます。

 空は曇りです。雨が降っています。秋の雨。

 最近、すこしお酒を飲み過ぎなので反省しています。相変わらず、節酒の誓いを破っている。年取ったので、〈適当〉でいいんですが ^^; ……まあ、こんなものだろうと慰めていたりしています。

 

  

 

          *               * 

 

 韓国の情勢は混乱していました。それにアジア主義者たちはどう関わったのか。

 

8章 閔妃暗殺

 1895年4月17日。

 下関条約が締結され、日清戦争は日本の勝利に終わりました。この条約の結果、日本は清から2億両の賠償金を受け取り、台湾などを割譲されました。また、清が朝鮮を「完全な自主独立の国」だと承認ことが確認されました。日本にとっては、清と朝鮮の宗属関係を切断し、朝鮮の独立を確立するという念願がかなったのです。

 しかし、この「朝鮮の独立」は、日本政府の意向に規定された政治体制の誕生に他なりませんでした。(P152)

  政治が混乱すれば、常に外国に依存しその軍隊を引き入れてきた朝鮮は、日本に従属する立場となったのです。

 

 三国干渉が起こります。ロシアは遼東半島不凍港を日本に奪われることを恐れて、ドイツ、フランスといっしょに日本に干渉してきました。そうしてロシアは旅順を手に入れました。

 

 閔妃は日本を牽制するためにロシアに擦り寄りました。そして親日派を排除していきました。それは朝鮮の変革を支援してきた天佑侠や玄洋社にとって許しがたいことでした。金玉均に刺客を差し向けて殺したのも閔妃だったからです。アジア主義者たちは閔妃を排除する暗殺計画を実行することになります。

 いまから考えると殺伐とした時代です。テロや戦争が当たり前のように行われていた。余計なものは排除するという暴力が力を持っていた時代です。

 金玉均をサポートし、朝鮮の政治改革を待望してきたアジア主義者たちにとって、閔妃暗殺は一つのクライマックスでした。日清戦争に勝利し、閔妃も葬って開化派の親日政権が誕生するという目標まで手が届きそうになりました。

 しかし、事態は彼らの思うようにはいきません。(P168)

 

9章 孫文の登場――宮崎滔天内田良平南方熊楠

 9章は、中国革命=孫文を支援した人たちの話です。

宮崎滔天 

評伝宮崎滔天 (1976年)

評伝宮崎滔天 (1976年)

 

 

 この章のP169~180は滔天の評伝です。

 

内田良平

  若き日に天佑侠に加わっています。1895年、ウラジオストクに移り住みロシア情勢を探りました。ロシアは満州への進出を進めていたので、シベリア横断鉄道の旅に出て諜報活動をしました。1898年、宮崎滔天を通じて孫文に出会い、中国革命のことを話し合いました。孫文はすぐにでも革命運動を起こしたかったのですが、内田良平はロシアへの脅威を感じていたので「支那革命の時期は日露戦争後に於いてするを可とすべし」という意見でした。

 内田が理解した孫文の構想は、「中国革命が成就した暁には、革命政府と手を組んでロシアを攻撃し、満州・モンゴル・シベリアは日本に付与する」というものでした。内田は、中国革命派の支援を通じてロシア排撃を進め、革命後は満州一帯を日本の影響下に治めるという未来図を描きました。

 この頃の孫文にとって、満族は異民族以外の何ものでもありませんでした。彼の目標は、「滅満興漢」という革命の成就であり、ロシアが中国の領土を取りに来れば、「日本と同盟して」ロシアを撃退すべきことを提起していました。革命が成功した時には満州やモンゴル、シベリアは日本に「付与する」ことも「可」であるとし、中国と満蒙を切り離して捉えるフレームを示していました。孫文にとって、満州は「外国」のような存在に他ならず、その構想は自民族中心(漢族中心)的なものでした。(P185)

 

  その頃、フィリピンの独立革命が起こります。1897年には独立を宣言し大統領としてアギナルドが選ばれフィリピン共和国となるのですが、スペインの反撃で再び平定されてしまいます。独立革命は失敗しました。

 しかし翌1898年キューバ革命が起こり、米西戦争が勃発すると、アギナルドはアメリカと手を結び、スペインへの攻撃を開始します。この作戦は功を奏し、彼は見事、帰国を果たします。そして、政権樹立を宣言し、再び大統領の座に就きました。

 アギナルドはアメリカの力を背景に、スペイン支配を打倒します。しかし、今度はアメリカが手のひらを返し、フィリピンを占領します。独立派の敵は、スペインからアメリカに替わることになりました。

 この争いの過程で独立運動家たちが注目したのが、日本の存在でした。日本は日清戦争の勝利によって台湾を領有しており、フィリピンの間近まで勢力を拡大していました。独立派は、日本の協力を得る構想を練り、マリアノ・ポンセを派遣することにしました。(P187)

 

 世界情勢はいつの時代も動乱しています。

 日本のアジア主義者は独立軍への支援を約束するのですが、武器を乗せた布引丸は台風のせいでフィリピン沖で沈没してしまいました。数名の日本人部隊はフィリピンに潜入し独立運動に加勢しようとしたのですが、革命軍には、指導者ではなく平の戦闘員として扱われました。そのため言葉のわかる二人だけが参加することになりました。けっきょく、独立運動は鎮圧され失敗に終わることになります。

 

康有為

 宮崎滔天は、孫文と康有為とを引き合わせようとします。康有為は清朝の改革派だったからです。しかし革命を主張する孫文とは相容れませんでした。

 

 P192からは恵州蜂起の失敗が語られます。

 

 アジア主義者たちが孫文に共感したのは、孫文が「滅満興漢」という「標識」のもとに革命を進めようとしていたからでした。清朝満族の国であり、その国を打倒しようとする革命派の運動は、漢族の興隆を期した「反満族」の運動であると捉えたのです。そのため、満州に敗退した清朝の残党を、日本が支配下に置くことによって、満州の権益を確保できるという考えが共有されることになりました。(P195)

 

 P196~203までは孫文南方熊楠が交流した話です。若き頃の孫文が熊楠とロンドンで交際したことで哲学的な刺激を受けたという話です。

 

10章 岡倉天心「アジアは一つ」の真意

 岡倉天心

 の「アジアは一つ」という言葉は後に政治的イデオロギーに利用されました。

 彼はインドでヴィヴェーカーナンダと出会ったことで『東洋の理想』という本を書きましたが、その冒頭の言葉が「アジアは一つ」でした。 

東洋の理想 (講談社学術文庫)

東洋の理想 (講談社学術文庫)

 

 

 彼はまず「アジアは一つである」と宣言します。しかし、彼はその直後で、アジアの複数性を論じます。アジアには「孔子の共同主義を持つ中国人」と「ヴェーダ個人主義をもつインド人」が存在します。その両者の間にはヒマラヤ山脈が走り、両者を分断しているように見えます。しかし、それは両者の特徴を強調するために存在するにすぎず、アジアには間違いなく「共通の思想遺産」が存在します。アジアには「究極的」で「普遍的なもの」に対する「愛」が存在し、その「愛」こそが偉大な宗教を生み出してきたのです。

 天心の見るところ、アジアは多様に存在しながら、単一の真理を共有しています。「複雑の中の統一」こそがアジアの特徴であり、それは日本美術の歩みのなかに表現されていると言います。(P212)

 

  •  天心はインド滞在時に、インド独立運動の闘士たちと接触したといわれている。
  • 「多にして一である」という不二一元論。

 

11章 黒龍会一進会

 P228~236には韓国の事情と、一進会の宋が日本の軍人、松石安治大佐に書かれた手紙の内容が解説されています。韓国の「内治外交」を「日本に一任する」という内容です。これには東学の独特な宗教思想が影響を与えているらしいのです。彼らのユートピア論によれば、「天人合一」の平等が実現するのであれば、韓国の政治は、先進的な日本に一任してもいい、と考えていたらしいのです。

 

 

12章 韓国併合という悲劇

 この章は一進会と日本のアジア主義者たちの動きが書かれています。

 ハーグ密使事件

……これは外交権を奪われていた韓国が第二回万国平和会議に密使を送り訴えようとしたものです。この後、日本の圧力で韓国皇帝は退位することになります。

 

 日本の皇太子(後の大正天皇)の行啓についての原稿改変問題。ここで一進会武田範之との認識の違いが表面化します。そのことがP244に書かれています。

 

 いろんな矛盾を露呈しながら一進会は日本との合邦に向かって進んでいたようです。

 そんな時、  安重根が、合邦に消極的だった伊藤博文を暗殺します。そのことが返って、1910年の日本による韓国併合を進めた結果になりました。この伊藤博文の暗殺事件には裏でロシアが関わっていたという考えもあります。以前、この事件の検証のサイトを読んだのですが、非常に謎が多いのです。

matome.naver.jp

 

 

 章の後半では、1919年3.1独立運動によせて読売新聞に書かれた柳宗悦の「朝鮮人に想ふ」という文章が取り上げられています。

 柳は民芸運動を展開したことで知られますが、「東洋的不二」の考えから「民族のトポス」を重要視します。柳は朝鮮人に同情的でした。

「真の一致は同化から来るのではない。個性と個性の相互の尊厳に於いてのみ結ばれる一があるのみである」

 それが柳のアジア主義でした。

 

  

 

  

 

  ……     ……     ……     ……     ……     

 

 

 

   「秋」

 

冷たい風が

吹いて

テントを揺らす

寝袋のなかで

じっとしていよう

何もせず

何も考えずに

ただ

祈ろう

形あるものは

なくなる

やがて

冬が来て

雪が降り

野原は

白く

覆われ

木の枝も

凍って

きらきらと

輝くだろう

その幹の

下に

捨てられない

悲しい

記憶を

埋めよう

 

 

 

 

 

………………     ………………     ………………     …………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。m(_ _)m

 誰もが穏やかで、幸せでありますように。