日の記し   ★ヾ(´・ω・`)ノ.: 。・☆彡 ・☆

社会の底辺で生きて来て、68歳になりました。そこから見える風景や、読んだ本の感想や、ネットの検索でわかったことなどを書きます。生きることは辛いこともありますが、何をしても生きてゆけると思っています。仏教は生きる指針です。リンクを貼らせていただくサイトの方々に感謝します。

学校に行かない子どもたち / 「木」

 おはようございます。

 最近は夏が来たように暑かったのですが、今日と明日は雨がふるようです。といっても今日の夕方からみたいですけれど。これだけ暑いと雨が恋しくなります。人間はわがままです。

 

 

          *               * 

 

 図書館から借りてきた本を読みました。

 

エジソンも不登校児だった―小児科医からみた「登校拒否」

エジソンも不登校児だった―小児科医からみた「登校拒否」

 

  この本は1990年発行なので相当古いです。それでも1章は「ふえつづける不登校児」というテーマに当てられています。当時から問題になっていたのです。

 前回のリンクを貼ったサイトをみると、不登校の子どもたちは一定の割合でいて、増えているといえないでしょうか。これはすでに、日本の教育体制に関わる問題だといえないのでしょうか?

 

 不登校になると、今の社会では不利益を被ってしまいます。

 そういうことがわかっていても〈学校に行くよりもいいから不登校になる〉。子どもにとっては〈なぜ苦しい思いをしてまで学校に行かなければならないのか〉わからない……という気持ちなのでしょうか。

 いじめかきっかけになって学校が嫌になったということもあるでしょう。

 学校のような逃げ場がないところでいじめのターゲットになるよりは、不登校になったほうがいいともいえます。

 

 根本に人間関係の問題があるのでしょう。

 人間関係が楽しければ、不登校になったりひきこもることはないはずなのです。

 大人のひきこもりも増えているといいます。働いていても、鬱になる人もいる。

 

 大人になれば、ひきこもりでも、なんとか生きていける。何をしても、生きていけるのです。でも、子どもで不登校のひきこもりは辛いだろうと思います。なんらかの社会的サポートが必要です。

 フリースクールとか、不登校の子どもたちを支え、手助けする活動もありますが……もっと公的な、いまの学校に変わる教育のシステムが必要な気がします。いまの教育は画一的で管理的な気がします。どうすればいいかを考えるのは、大人の責任だと思うのです。

 

 この本のタイトル通り、6章には「こんな有名な人も不登校だったのだよ」と出てきます。

エジソンチャーチルアインシュタイン南方熊楠萩原朔太郎吉川英治淀川長治美空ひばり喜屋武マリー

 この本の肝の部分です。

不登校であってもいいのでないか〉という、子どもに寄り添う視点で書かれていますから、「まだ牧歌的な教育観だったんだな」と思ったりします。 

 

 

 それともう一冊。 

  2012年の発行ですから、現代の不登校の問題意識で書かれています。

 1章で不登校の定義が為されているのですが、

学校教育といういとなみにはらまれるなんらかの要素との関連において長期欠席が生じ、そこに悩みや不安や葛藤が生まれているもの(P31)

  ということで、発達障害などの臨床を含む範囲に拡大されています。

 

 学校教育には、子どもを社会的に大人にするという社会的支援の面と、個人の成長を促すという人格支援の面があるらしいのです。

 

 この本では「教育とは何か」から「教育制度はどうして始まったか」の歴史、「教育で何が教えられるか」の内容などが、わかりやすく書かれています。

 

 教育というのは社会を反映しているものです。

 ぼくは中学を出て働き始めたのですが、全日高校へ進学することが当たり前になり始めた頃です。いまでは大部分の人が大学に行きますが、60年代の半ばの時代はそうでした。 

 70年には過激派が社会を混乱に巻き込み、80年代には家庭内暴力がクローズアップされます。家族制度が徐々に崩壊し始めたのです。

 いまの不登校と社会的ひきこもりは同じ原因から起こっている気がします。

 

 

 日本は義務教育で子どもが教育を受ける権利が保証されています。学校に行かせる義務が社会にある。

 世界では教育を受けられない子どもたちがたくさんいるのを忘れることができません。

 世界の貧しい国の人々にとって、教育は貧困の連鎖を抜け出すための手段なのです。

 そんなことを考えると、日本は恵まれているといえます。ひきこもりでも生きてゆけるというのは社会が豊かな証拠といえるのかもしれません。

 

 

 子どもの不登校や、ひきこもりや、発達障害を社会問題として捉えなければならないと思います。学校での教育が一元化して、子どもにとって過酷な秩序になっていないか検証する必要があります。秩序を乱す者は、そこから追放されざるをえない。たぶんいじめも、集団の許可の下で行われている、そういうことを子どもたちは知っているのです。だから、秩序に組み込まれない者は不登校になってしまう。 

「学校は何のためにあるのか」

 もう一度、それを確認しなければならない時代だと思います。

 

 江戸時代の寺子屋に憧れます。

 たぶん、当時、寺子屋に通う子どもたちは学ぶことが生きる糧になることを知っていた。学ぶことが好きだった子もいるかもしれません。

 

 いろんな学校があっていいと思うのです。

 受験に対する塾のように、勉強専門のところがあっていい。

 いろんな専門学校があったらいい。

 いろんな職業学校があったらいい。

 学者になりたい者には、高度な専門的な知識が与えられるようになればいい。

 政治家になる者には厳しい倫理や道徳を。

 専門的に分かれることは差別ではないはずです。

 

 いろんな働き方や、いろんな生き方や、いろんな学べるところがあればいいのです。

 子供の世界にも、大人の生き方が反映されています。大人が自由に生きることが出来なければ、子どもの社会も窮屈だということだと思います。

 

 

 

 

 

  ……     ……     ……     ……     ……     

 

   「木」

 

空に 

大きく手を広げる

あなたは

ぼくを

抱きしめてくれそうな

巨人だ

幹はごつごつして

樹皮は剥がれ

痛々しいが

当然と

受け入れている

雲もない

青空の下で

あなたは

葉に

光をため

ひとり

背を

伸ばして

立っている

 

  

 

 

 

………………     ………………     ………………     …………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 誰もが穏やかで、幸せでありますように。