読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

  67歳、日の記し           ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て、55歳で世間との交渉を断って独りになりました。そこから見えることや思いを書く日記です。仏教を生きる指針にしているので、そのことも。リンクを貼らせていただくサイトの方に感謝しています。m(_ _)m

『大学生に語る 資本主義の200年』を読んで 3 / 「朝の光」

 

 おはようございます。

 今朝は寒いです。でも冬の厳しさという感じはしない。だんだん春に近づいているようです。

 

 

          *                 * 

 

 5章 社会主義は終わったか、です。

 

 まず、共産主義運動の歴史が語られます。

  • 工場法に対抗してチャーチストという団体が生まれる。
  • 1847年、ロンドンで共産主義同盟。「共産党宣言
  • 1864年。第1次インターナショナル設立。
  • 1867年『資本論』出版。

 

 ソ連はなぜ失敗したのか。

 資本主義社会では利子率が投資の基準となる。

 ソ連では投資をするのは国や地方政府。事業計画も甘い。公共的であれば生産性が低いものでも投資した。1965年にエフセイ・リーベルマンの企業報奨金制度が採用されるが失敗。労働組合を排除したことが原因だ。

 

 世界で左派が力を失ったのはグローバル化による。各国の労働組合の利害が対立したから。

「労働者の賃金は、かならず労働者にとって不利に決定される」(『国富論アダム・スミス

……(略)……

 これに対抗するのには、世界のすべての労働者が、国家や産業を超え、たがいに情報交換をして、共闘できればいいのです。つまり、インターナショナルの考え方ですが、これはいまのところ近代国家の中では、まったくの理想論です。(P231)

 そして著者は、各国の労働者を分断するために〈ヘイトスピーチ〉が使われていると説きます。「権力をもつ者に、民衆の敵意が向かわないようにしているのです」

 

 ヘイトスピーチについては、ぼくはぼくなりの考えを持っています。

 日本でのヘイトスピーチといわれるものは、在日韓国、朝鮮人の特権を非難する行動だと思います。この本でいうように、「労働者階級の分断」のような理論で割り切っていいものかと思います。まったく現実をみていないと思うのです。

 ぼくも汚い言葉で相手を罵倒するのは嫌ですが、「それはヘイトスピーチだ、差別だ」という側の反省も必要ではないかと思います。歴史的になぜ在日外国人が永住を許可されているのかも考えなければなりません。

 戦後、在日朝鮮人や韓国人は不法に日本に入国して来たのですが、1940年代後半から日本共産党と一緒に警察署や役所を襲撃して、結果、いまの権利を手に入れたのです。

 犯罪を犯しても強制送還されませんし、本来、外国人は受けられない生活保護を5万人を超える人が受給しています。朝鮮学校は日本の教育基本法に従わず、反日教育をしています。各種学校なのに補助金を要求していますし、韓国朝鮮人を補助する制度は神奈川県を始めとしていろんな自治体にあります。無償で貸与されている土地もあります。

 やはりなんらかの利権や特権になってしまっているのではないでしょうか。なんの原因もなしに相手を非難しても、それは多くの人から相手にされないはずです。そう冷静に考えれば、「ヘイトスピーチだ」といって過剰反応をすることには、なにか都合が悪い事が隠されていると思うのです。

 

 P240ページからは右派の復権に警鐘を鳴らしています。

 グローバル化も進み、格差も広がった結果、先進国の中間層は自分たちが享受していた豊かさを守ろうと、移民や海外からの商品を締め出そうとしていると解説されています。

 各国の労働者は分断され、資本だけが世界を横断することになる。

 また、日本はアメリカの属国の位置にある、と批判されています。

 ロシアや中国が経済的にも台頭して、アメリカを凌駕する時代が来ると読めるようなことがP246に書かれているのですが……あまりにも中国やロシアに寄り添う考え方ではないでしょうか。

 

 P248からは「世界のグローバル化は歴史の必然です」と書かれていたり、「革命とは、新しい世界をつくることであり、しかも歴史の必然です。しかし、何でもかんでも新しい世界をつくろうとして、うまくいくものではありません。歴史の必然にしたがって、革命も考えていかなくてはならないわけです」と書かれています。

 

 P251からの歴史の必然という項には――

こういった利益をめぐる経済的現象は、必然として起こりうるわけです。歴史は、人間の営みの集積ですから、だいたいの流れがあります。ここに歴史の法則や発展段階をを見いだそうとするのが、西洋の歴史学の手法であり、その手法によっているのがマルクス主義です。

 こうした歴史学なんてものも、実はかならずしも真実とはいえないものです。すべての歴史は、偶然の連続だ。理論化なんてできない。すべてにおいて当時の文献から逐一あたっていくしかない――たしかに、そういう考え方もできます。

 しかし、実際に文献を穴があくまで眺めていても、真実は見えてきません。多少ムリをしてでも、見えないところを見ようとするしかありません。〈もっともらしい〉といわれれば、それまでですが、やはり歴史の法則や発展過程から追っていかないと、私たちはとっかかりを失います。とくに、このように混迷した時代になると、何かを見たいわけです。マルクス主義が復活する可能性は、こういうところにもあるのだと思います。(P252)

 と、書かれてあり、迷いもあるようですが、理論を立てることは大事だといわれています。

 ぼくもそうは思いますが、あまりにも現実の状況を、理論の方からの視点で解釈し過ぎではないかと思います。マルクス主義が復活してほしいという願いによって、理論優先になっていないでしょうか。それで現状や現象を裁断していないかと思うのです。

 

 もっと資本主義の根本のところを解説されているのではないか、という思いで読んでいたんですが、ちょっと違うような気がします。理論を勉強することと、それを現実に当てはめることは違うのではないかという気がするのです。

 

「資本主義とは何なのか」というのは、ぼくの若い頃からの疑問です。

 こんな社会でなければいけなかったのか……けっして社会を否定しているわけではないのですが……底辺で仕事をしてきたので、社会の矛盾や格差を体験してきました。それで、この社会に疑問があるのです。

 この本は共産主義の理論優先になっています。でも、理論って、教えられたり、従ったりするようなところにあるものではないと思うのです。

 

 また、違う方向からのアプローチが書かれてある本を読みます。

 

 

 

 

  ……             ……              ……

 

 

   「朝の光」

 

音もなく

枝から雪が落ちる

ゆっくりと

ひとつの

沈黙が

いるべき場所に

帰ってゆく

凍った

夜は明け

朝の光が

すべてに

満ちて

キラキラと

輝いている

 

  

 

 

 

 

………………     ………………     ………………     …………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 誰もが、穏やかで平和でありますように。