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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

えべっさん  嵯峨信之詩集「土地の名~人間の名」

 おはようございます。

 今朝は寒いです。冬、という感じです。

 

 昨日は、関西では「えべっさん」でした。

matome.naver.jp

 

えべっさんこと大阪の今宮戎神社!2016年の日程と混雑情報 | shittoku.xyz

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 今日は11日で「残り福」なんです。だいたいみんな「本恵比寿」に行きますから、昨日の日曜日よりも混雑してないだろうと思います。ずっと昔、行ったのですが、屋台がずらっと並んでいて楽しい。福娘がきれいで、見ているだけで福がもらえる気がします。女の人はみんな美しい……

 

 関西では戎っさんが終わると、お正月が終わった、という感じになります。それまでは正月気分なので、これから「商売するぞ」「働くぞ」みたいな気分になるんです。それは一般の人も同じなんですね。ぼくも関西人なので、そんな雰囲気のなかで生活しているんです。^^; 今年はえべっさんには行かないけれど。

 

 

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 嵯峨信之の詩集「土地の名~人間の名」を読みましたので、紹介します。 

詩集 土地の名~人間の名

詩集 土地の名~人間の名

 

  ぼくは大阪市立中央図書館で借りたんだけれど、地方の図書で蔵書しているところは多くないのじゃないかと思っています。

 

嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)

嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)

 

  にも載っているんだけれど……文庫では抜粋して部分を掲載しています。完全に掲載されているのは「台地」の詩篇だけです。

 詩集では「台地」「地名、人名」「火の鳥」「雑草詩篇」「同行者」「無言経」というタイトルに分けられています。 

 

――小さな断片詩を集める形で詩全体が形作られているので――一部分を抜粋、選ばれても、それだけでも詩といえるかもしれない……

 

 こういう書き方がある、ということを初めて知ったような気分になりました。詩集としてまとめて読んだからか。いえ、今までも断章を集めた詩とか、一行詩を連ねた詩集とかを目にしていたんです。けれど、目的意識を持って並べられた、詩集としては、初めて出会ったという新鮮な驚きがあったのです。

 

 こういう断片を集めた形で詩を書いてもいいんですね、構成の勉強になります。

 

 たとえば、「雑草詩篇Ⅲ」

小さな水溜りは 未知数であり 運命であり

しばらく時と空間とのあいだに身をひそめている

これはアルファベットが液体になったのだと教えられて

いつかは鴎になる日もあろうとおもう

風が吹くと

水溜りはおさない翼でいっしんに飛び立とうとする

 

      *

 

ぼくが記憶のなかで失った多くの路上を

いまだれかが歩いているだろう

 

ぼくは時の幕をかかげて

遠くの路上を

じっと見ている

 

夜はふけて

噴水がさりげなく水を噴きあげている

 

いまだれかが遠ざかる足音がする

 

      *

 

ここに夕が あそこに朝が

並んだ日々のなかにずり落ちそうな一日が懸かっている

ぼくをもう呼ぶな――

時刻も 空間も

持ち主不明のままなにかにその日が蔽われている

 

朱塗りの籠の中に

大きな白百合を盛ろう

それから文字からもっと遠い村境いまで行こう

              (P75~81)

      *           

    以下(略)

 

というような詩群なんです。ですから抜粋されても一つの詩として自立しているし、それでいいのかもしれません。でも、詩を読む詩の印象は違うものになると思うのです。ですから、ぜひ、詩集を読んで欲しいのです。

 

 この断片が集まった詩の形――それは、テーマを、それぞれの角度や、視線や、思いから深めていく手法だと思います。様々なモチーフを提示することで、こんなふうにも見える、こうも考えられる、こんな思いを持ったというふうに。

 

 現代詩文庫の解説では吉野弘が「嵯峨さんの魅力」という文章で、[地名、人名」のなかの、

肉体よ

もうしばらくぼくの生命を閉ざすのを待ってくれ

 

ぼくは自問する

〈時のトゲ〉に被われていないものはどこにあるか

 

朝は早く露にぬれた芝生を素足で走る

深夜

町はずれで見知らぬひとと挨拶する

かくてぼくはぼく自身からもしだいに遠ざかっていく

いつかやわらかな時のトゲに被われて動かなくなる

           (P32~33)

 を取り上げて、

「威嚇的なトゲでなく〈やわらかなトゲ〉であるところに、説得力がある」と解説されています。そして、

「人間の生死、幸不幸、愛憎ということの諸相が多くの詩人に詩を書かせるわけだが、嵯峨さんの場合は、もともと一対のものの一方を切り捨てるということがない。総体を引き受けるのである」と批評されいます。

 

 まったくそうだな、と思いました。ぼくは、嵯峨信之の詩を読んでいると「存在」するということの不思議さを感じるのです。生きることの不確かさというか、愛おしさ……

  嵯峨信之は戦後詩の流れのなかでは独自の位置にいると思います。

 好きな詩人です。

 

 明日も、その詩の書き方を学びたいと思います。

 

 

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 読んでいただいて、ありがとうございました。

 誰もが、穏やかで、平和でありますように。