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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

1972年に沖縄に行って体験したこと

 おはようございます。

 昨日は寒かった……今朝は晴れです。すこしは暖かくなるでしょうか。寒波はまだ、日本列島の上に居座っているようです。

 

 

 思い出の続きを書きます。

 

 なぜ、1970年代の頃の思い出を書くといえば……自分にとって、それが人生が変わることになる転換点だった、と考えているからです。誰にもそういう転換点はあると思います。ああいうことがあって、こう考えることが出来た。そして、いまの自分がある……

  1. フーテンのことを週刊誌で知って、憧れて、新宿に行った。それから放浪することになった。
  2. 沖縄で釜ヶ崎共闘会議の人と出会って、マルクス主義を学んでみようと思った。
  3. その後、新左翼の集会に行くようになり、中核派のシンパ(兵隊)になったが、三里塚闘争でのセクト主義の行動に幻滅してやめた。
  4. 離婚して、一人になり、もう一度、根本から考える……人生を立て直す考え方を求めて……聖書を読んだり、キリスト教の本を読んだり、心理学や、経済学などの本を読んだ。
  5. 宗教は人の生きることに近いと思った。

 

 それがぼくの人生の総括なのですが、やはり、いつも、自分は何なのか、何をしたらいいのかを考えてきたように思います。

 けっきょくは、自分のなかでうじうじと考えているだけで、他人と交流してこなかったし、世間の付き合いでの自分の役割とか、位置も作れなかったのですが……たぶん、性格が偏っているのです。そして、それが自分なのでどうしようもない。

 

 人付き合いは苦手だし……

 ぼくのような理屈っぽい問題意識を持っていることは、世間では受け入れられないと思います。個人的な「救われたい」とか「解決したい」思いを、他人や社会に求めても、それは方法が間違っているように感じるのです。

 ぼくは子どもの頃から孤独癖があるし、ひとりぼっちのほうが楽なのだと思っています。

 

 いまは、〈自分なりの仏教徒〉でいい。

 

 

        …………       …………

 

 沖縄のことに戻ります。

 国際通りで易者さんに声をかけられたのですが、「ちょっと手伝わないか」ということでした。飯を食わせてやる、ということだったので……

 その男の人は、長い顎鬚を伸ばしていて、いかにも易者という雰囲気でした。紹介された、「管長」と呼ばれていた男は、坊主頭で白の釣りズボンで、物言いやしぐさにヤクザの臭いがしていました。ちょっと引いたのですが、金もないし投げやりな気分だったので、飯が食えるならいいか、と思ったのです。

 

 折りたたみの机に白い布をかぶせ「易占い」の灯りを置いた後ろに座らされました。占ってほしいという人がいると、「あちらの先生に……」と管長のところに案内するのが仕事です。

 

 仕事が終わると、易者さんが泊まっていた「一ドルハウス」というドミトリーに行きました。事情を話し、後払いでもいいということで泊まれることになりました。二段ベッドが並んだ部屋で、旅人が大勢いました。

 この民宿の経営者は、30歳代の気さくな沖縄美人で、スナックもやっていました。後にはそこの常連になりました……

 

 昼は管長が住んでいるマンションに連れられて行き、「運命鑑定のチラシ」を送る準備をしたり、封筒にチラシを入れたり、今でいうダイレクトメールの作業をしていました。

 そこに管長と住んでいる少女がいました。どういう事情かわかりませんが、管長の女になっているようでした。易者の男が「あねさん」と呼んでいたからです。

 チラシは易者さんと付近のアパートや家の郵便受けに配りに行きました。

 

 この仕事は一週間ほどしてやめることになるのですが、そのきっかけになったのは、たまたまマンションで少女と二人になった時に、「いっしょに逃げてくれない」と頼まれたからです。管長と呼ばれている男は完全にヤクザだと思っていましたし、易者の男は手下という感じでしたから、揉め事になるのはやばいなと思ったし、22歳のぼくにはどうしようもできないことでした。そんな危ないことをする勇気もなかったのです。

 

 翌日に、他の仕事を探すからと易者さんにいい、手伝いは断りました。宿泊している人が通っている那覇職安に連れて行ってもらえました。日雇いの仕事はすぐ見つかり、道路工事の作業員で働きました。後に、そこの(世紀建設という北海道の建設会社でしたが)監督に話を通して、飯場に入れてもらえることになりました。

 その飯場では、半年働いては、離島に行き、また戻ってくるというようなことを繰り返していました。

 ヤクザに囲われていた少女のことは、時々思いました。無事に抜け出せたんだろうかと。

 大阪に帰って来て結婚していた77年頃、テレビのニュースで、詐欺で捕まった男の顔写真が映りました。あの二人組が富山県か石川県かで逮捕されていました。

 

 

 沖縄のことは断片的に思い出します。3年ほどいたのですが、金を稼ぐために嘉手納基地の第3ゲート前の道路工事に従事していたことが中心です。

 離島でのこと――

 つきあった沖縄の女の子(スナックの手伝いをしていた)

 それと、いっしょに働いた釜共の大原誠という男の人。ぼくより4~5歳年上で、もと弘前大学生だったといっていました。この頃は、新左翼の街頭闘争ができなくなり、身を隠すように学生たちが世間の底のほうで活動していたのです。大原誠は偽名です(井出結城とも)。本名は知らないのです。この人と話すことで、マルクス主義をもっと知らなければならないな、と思ったのです。ぼくはフーテンとして生きてきたのでしたが……

 

 

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 詩のカードからです。

 

【詩におけるイメージと想像力について】

リルケ

「詩は感情で作られるのでなく、体験から作られる」

 

 想像力は単にイメージを形成するのでなく、新鮮なイメージ、新鮮な比喩を作り出す力であり、記憶とは、その素材を集め、保存する能力です。

                               「詩の読みかた詩の作りかた 中桐雅夫 P90」

 

バシュラール

「想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、日常的イメージから我々を解放する、イメージ変える能力なのだ」

 

 

………………     ………………     ………………     …………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 誰もが、穏やかで、平和でありますように。