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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「吉増剛造論(小野満 1984年)」を読む 3

 おはようございます。

 

(「続・吉増剛造詩集」(現代詩文庫115)の目次を見ても「黄金詩篇」や「疾走詩篇」がないのが残念です。けっきょく、この「吉増剛造論」に引用されている部分的なものしか読めないので、全体を読んでの感想を持てないのです……)

 

 

 詩集『黄金詩篇』の分析の章を読みます。

全体志向としての言語圏………『黄金詩篇』の位置】まとめ

 P37~43までは、60年代詩が持っている「困難な状況での発語」について考察していると思います。詩論というべきもの………

 ……そのような厄介な代物として「詩」が存在するということ。なぜならばそれは微視であると同時に巨視なのであり、具象である反面、私達の存在基盤その総量をも包摂する力の根源を志向しているからだ。現場検証と天体観測の同時間的二重性を表現が抱え持ち、その分だけまた分裂を裂けられぬものとして詩が現在置かれている姿がある。その総体との決定的対峙を目論むため、天沢退二郎言うところの、「現実に対し『現実認識』とは全くずらされた角度から、攻撃的に、全体的に関わりあう」、という、一見無謀とも見える遊撃手的な方法が光彩を放ち始めるのはこの地点以外ではない。(P37)

と書かれているからです。

 ここから始まって……

一般に「六〇年代詩」と呼ばれている一群の詩を位置づけてみるための必要不可欠な批評的視点は、このような表現の転倒そのものに関わっていく行為を介在せずには成立しないと私は考える。比喩的に言えば、溺死しかけている詩人(表現者)の苦悶の姿勢や表情を的確に把握しつつ、そこから逆に、彼が溺れている現実と表現との不可避な亀裂(ズレ)、その構造を極力全体的な地点から暴き出すこと、それこそが批評の志向すべき方角であり、生涯見学者わたしの酷薄な営為となることを望む。(P38)

という態度で詩を読むべきだと書かれています。

 

………………     ………………     ………………     …………………

 

 この後には、渋沢孝輔の詩が引用され、彼の詩論が展開されているのです。

「いまここのこの暗い淵で慟哭している/未生の言語の意味を否定することはだれにもできない」(「水晶狂い」)という、〈狂気〉の仮構そのものの中に降り下ることで、未生の言語を論理よりも先に掴み取ることで、「象皮色の滑らかな道」を全く異質の方角から相対化し直そうと試みたのであろう。この意志はまぎれもなく「死と愛とをともにつらぬく」透明な狂気として詩を生きる、言ってみれば表現の断崖絶壁に立って歩行を続ける覚悟を必要とする。しかし勿論、そのような方法によって獲得された表現の基盤は、時に言語への楽観性という陥穽を構造的に抱え持たざるを得ないことも、批判てきな視座として問われねばならない。(P41)

と書かれています。詩がないと判断できないですね、引用します。孫引きで、すみません……

秋の日の象皮色の滑らかな道を

ころころと生首などを(おまえの首だ)

ひきずりながら歩いているおまえの気持はどんな気持か

首がおまえを見ている(おまえの首だ)

ひきずられながら 皮肉な眼で

おまえの生のひろがりを測っている

そのひろがりの彼方には どこまでも

秋の日の象皮色の滑らかな道

ただもう秋の日の象皮色の滑らかな道

           (「像」)

 

 

というように、60年代詩の持っていた〈状況←→表現〉の構造を持つ詩論が、著者の考え方の根拠にあるように思います。

 

………………     ………………     ………………     …………………

 

 正直にいうと、すこし疲れました。読むのも疲れるし、考えるのも疲れます。

 

 どういうところで詩の発語が行われるか、を考えていくと、無限に時間をとるので……また、「その問い」がすっきり解決されることはないように思います。

 

 ぼくは、素人なので、いろんな詩論があるのを認めるし、またどのような鑑賞の仕方でもいいじゃないかと考えてしまいます。「こう読むべきだ」という意見もいいでしょうし、詩は「こう書くべきだ」という意見もいいでしょう。なにが正しいのかを議論するのもいいでしょうが、それはそうすることが好きな人がやることです。

 

 ぼくのような素人で単純思考の人間には、この本の文章を読むことは、気持に負担がかかり過ぎるのです。

 

 それで来週からは、この本での吉増剛造に関する部分だけを抜き出してゆくことにします。「吉増剛造論」として図書館にあったのはこの本だけだったので、その分析や詩人論は貴重だと思います。読みたいし、学ばせていただきたいと思っています。

 

………………     ………………     ………………     …………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 誰もが、穏やかで、平和でありますように。

 また、14日に。