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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「吉増剛造論(小野満 1984年)」を読む 2

 おはようございます。

 

 続いて「吉増剛造論」を読み進めたいと思います。

 

 ところで、著者は詩人です。それでここで書かれている評論の文章自体が詩人特有の、複雑で、思いのこもったものになっています。情緒的といってもいい……たとえば、次のような、

 錯乱でもなければ妄想でもない。このような、「いたるところに傷跡や谷間/ぬるっとした距離」を持つ日常の棘々しい回廊を生かされざるを得ない私達は、毎日のように恐怖と慰安の均り合った嘘の天秤と隣合わせの席上で無声映画に見入る呆けた観客の一人に過ぎない。その映画の題名はことごとく、[幸福][希望][明日への喜び]といったもの。

「嘘だあーっ」と叫び劇場の厚い扉を押す。だが街々はイデオロギー劇場で上映中の画像を復習的に虚しくなぞっているに過ぎぬ。その一コマに紛れ込まされ、たかだか通行人の役回りしかもらえぬのに出演契約を結んじまうなんてたまらない。生涯通行人、なんたる悲惨。これなら「猫が猫であるための限りない遠足」の方がよほどましではないか。もう、安酒場までの全力疾走あるのみ!という気にさえなる。詩人は「全体に血走」りながら走る。すると、「言葉袋はひとりでに裂け/通行人を驚かす」事になる。ほとんど自動小銃的に咽喉から飛び出て舌を滑り、唇から炎とともに紡ぎ出され始める言葉群。奇怪でかつ神聖、乱雑かつ実に計算され尽くされた詩行、この恐るべき修羅詩人の「神業的連続断言」を、[狂気]の一語のみを以て指さす脳天梅毒の通行人は誰だ。いや、もとより言語とは一法則の下に仮縫合された布切れ、支離滅裂な記号でしかない筈だから、「詩」も「文章」も実を言えばすべて胡散臭い代物なのだ。むしろ言葉を素粒子のまま掌に乗せ眼前に据えて、裸電球の下でジッと凝視し続けよう。やがてカッコ付きの概念の衣裳を脱いで斬新な全裸を見せ、その結晶が…………(P14~15から部分)

 のような文章なので……教養のないぼくにとっては、言葉についていくのがやっとなのです。なにが書かれているのかさえも混乱して、文意がつかめない状態です。

 ようするに、「恐るべき修羅詩人の『神業的連続断言』」に賛同し支持しているということなのだ、と理解しました。

 

 そういうようなので、ぼくが〈まとめる〉なんていうことはできないと思いました。 

 それで重要だと思ったところを引用する形で、要約できたらいいなと考えています。

 

「祭火」が載っているP24から読んでいきます。

 

 まずは評論「危機感について」から客観的に考察を追ってみたいと思う。「……我々が生きているということは、時間の持続、その慣性のただなかにすぎず、時間は目的の意識にほかならない。(略)近代社会以来、最も狂暴な力をふるっているのは、まさにこの、時間の持続をねがう、目的意識の壮烈な前進に、人類が怒涛のようにおしながされている、これであろう。時計をとめなければならない。」(P24)

という言葉を引用して……北村透谷の『楚囚之詩』『蓬莱曲』と対比されています。

 そして、

「時間の突然の停止」が仮に起こりうるとすれば、それは自身の死骸を、その不可能性において凝視することの可能な瞬間のみかも知れぬ。 (P25)

 といい、

 ぐずぐずしていたら言葉の属性として終わってしまう。日常とともに飢えて死んでしまう。言葉=保守、という妙な図式がぼくにはある。渾沌とした多の世界をなしている言葉は、たとえば真実、一なるもの、とは相反する虚妄の世界なのである。言葉は嘘以外のなにものでもない。

 走れ! 言葉よ!     (「危機感について」)

 という文章を引用されています。

 

 

 P27では『出発』という詩集について、

「草原へゆこう」に到っては、自身の感情全般の無力さを痛感した上での壮大な祈りの一篇と呼んでも間違いなかろう。後半から木霊のごとく響きリフレインされる「草原へゆこう」という、途方に暮れた、何処にも存在する実体感のまるでないような架空の磁場へ自らを誘う言葉、これは詩集『出発』冒頭「出発」の「おまえは腐敗している」と間違いなく結節されてくるものだ。つまり「自然」としての歴史的所産、日本(敗戦国)の不能精神より出発し、それを補うための大言壮語を駆使する方法自体が、自身に回期して来ざるを得ぬ少年期の素顔とでも言うべき存在の前には無力にも崩壊するしかなかった訳であり、根源的勢力としての「腐敗」は免れなかったのだという位相が誕生する。それが「出発」の引き裂かれた詩篇全篇を縫うように貫流していた主低音の横糸というもので、吉増の営為はこの一点の露出に向けられたのではないか。

と、分析されています。

 

そして「希望」という詩に、

コカ・コーラの空壜を一晩がかりでたたきこわしながら生きている

とある意味を「アメリカ物質文明の『毒』としての形骸、その象徴であると把える」と書いています。

 またP29では、『わが悪魔祓い』という詩集について、

強者アメリカへの異化から「出発」し、強者模倣(同化)としての自身の素顔と邂逅して両者の闘争を見、そこで敗れた「異化」体験の主格の死骸を目撃することで『黄金詩篇』『頭脳の塔』へと至る魔の裾野に身を走らせ、あるいはもう一方の相対学的(?)側面より日本へ回帰してゆく構造を持つ『王國』におけるそれこそゴチヤ混ぜの詩的契機全体を、わが内部の悪魔として祓ったということにあると言える。 

 と総括されています。

 

  また『草書で書かれた、川』の詩についても、

川、風、空。花鳥諷詠などではない。敵を完璧に欺きかねないほどの、残酷な自明性を振りかざす「自然」(神)への殺意を隠した静かで恐るべき実体としての大接近。そのためには、まさに「空中散歩」、「詩」成立の条件として描写表現の俯瞰は免れないであろうし、生身の人間を詩人自身意識しなくなるほどの、滅私が必要とされるのだ。それは非常に「死」と「狂気」とに近しいが、言うならば「詩」信仰への密教的他力本願である。自身の身体を完璧なレーダーに置換した死の模倣であろう。(P32)

 と分析、解釈されています。

 

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 ぼくは『黄金詩篇』『王國』『わが悪魔祓い』『草書で書かれた、川』が載っている「続・吉増剛造詩集」(現代詩文庫115)を読んでみたのですが、たしかに言葉の調子が変化しています。

 詩人がそのときに持っていたテーマというのも変化しているでしょう。

 詩人が言葉を発することの重要性も感じることができます。

 

 それでも、ぼくは思うのですが……詩は読者と共有されたものであって……究極、読者が楽しめたらいいのではないかと思えるのです。いろんな詩があるのだから……読者が好みで選んでいるのだろうと……

 

 この章では、「言葉を発すること」について考えさせられました。続いて吉増剛造論を読んでいきます。

 

 

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 読んでいただいて、ありがとうございました。

 誰もが、穏やかで、平和でありますように。