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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

疾走から歩行へ

 おはようございます。

 

 昨日、松浦寿輝さんのエッセイで、「吉増剛造は疾走から歩行へ変わった」という指摘がありました。それで、初期の詩と、変化した詩とを読み比べてみたいと思います。

 

吉増剛造集(1)

  • 朝狂って  燃える 海の恒星  今朝も道玄坂をおりて   花・乱調子  落下体  波のり神統記」『黄金詩篇思潮社(1970)所収)

吉増剛造集(2)

  • 「渋谷で夜明けまで 反乱 火が見える 中心の歌 燃える麒麟を夜に放つ 高村光太郎によびかける詩 航海日誌 疾走詩篇 黄金のザイルは朝霧に……… 声 燃えるモーツァルトの手を 道」(『黄金詩篇思潮社(1970)所収)

 吉増剛造集(3)

「変身 夏の一日、朝から書きはじめて 歌 歌 素顔 独立 死人 北海道 黄金詩篇 空を包装する」(『黄金詩篇思潮社(1970)所収)

 

が、ネットで読める吉増剛造の詩です。(サイトの方、ありがとうございます)

 

 ここでは初期の頃の疾走感がよく表れていると思います。他の詩集もありますが………なにしろ詩集がたくさんあるので………それは「吉増剛造論」でも論じられるので、そこで、また。

 ここでは、詩集『静かな場所』と比べてみます。

 

………………     ………………     ………………     …………………

 

 詩集名となっている詩「静かな場所」は、

 現代のアメリカの生活のなかの音をとらえようとするのだが、なかなかむつかしい。まず考えつくのは、これは日本でもそうだがクルマの走る音、そしてテレビ、ラジオの音だ。いつかめずらしい静寂のなかにいるなとおもったことがある。数年前に訪れた水の都ヴェニス。当たりまえのことだが、水路が主な交通手段だから、クルマのはっする音が聞こえない。そして、クルマがここには入ってこられないのだと考えると、不思議と落ち着きを覚える。 

という書き出しで、これが第一段落です。

 その後、「私達はクルマのはっする音から逃れられない………アメリカでも、ロシアでも日本でも」が、第二段落。

 原稿を書くのに、静かな場所が見つからず、途方に暮れてしまう………

 そうだ、駐車場に行ってみようと、思いついて、中古車の展示場のようなところに車を停める。

 窓を開けると、冷たい風。

 数ヶ月前、ニューメキシコサンタフェの村里でインディアンの踊りを見ていたことを思い出す。 車が取り囲み、そこが駐車場の空き地のように見えた。まるで車たちが踊りを見ているようだった。世話役らしい初老のインディアンが、美しい色のリボンをつけて踊りを見ていた。

エンジンをとめ、ラジオのスイッチも切って、踊りも催しも勿論ない、駐車場の、前方の空き地のような所をみつめていると、たしかに現代社会はある中心を失っているのだと、あるいは輪のような、サークルのようなものを失っていることに、気がつきはじめる。 

 という、散文詩です。

 エッセイと呼んでもいいぐらいで、「静かな場所」について考察しています。

 

 この『静かな場所』という詩集は「耳を澄ます」にしても「静かな家」にしても、ひとつのテーマについて巡らす思いを描いているのです。

「おとづれ」………〈はじめて気づく不思議な(ある距離の)おとずれ〉についてのような心理を描いているものもあります。それは風景について思うことなのですが。

 

瞽女さん」は、手紙の形式です。耳を澄まして聴こえてくる音………誰かと一緒に言葉を聞いている気分になりたい思い………

 

「蓄音機」は………北村透谷の文章に出てくる〈蓄音機〉という言葉からイメージされる幻の音楽………それはカーネギーホールを覗きこんだときの廃墟の感覚………だったり、動物園での体験の〈滅び〉の感覚であったりするのです。

 

「この輪のなかに」………荒川堤を歩いていて、思ったこと。この世の〈声の溜り〉はどこにあるのか、家の台所、玄関か………トイレか………ロスからデトロイトに電話をかける時に感じる、異種族だという思い………お醤油のたまり………たたら………相撲の………声………呼び声……と言葉に思いを巡らすエッセイのような散文詩

 

「オルガン」という詩が最後に載っているのですが………

 電車が橋上にとまっている。

 川かぜが不審そうに窓から顔を出した少年の額にあたっていた。冬の日、川原をふくかぜは宇宙からのかぜ、寒いのに少し薄緑色にそまり、鮎の、子等もみあげていた。船食虫の幼虫達はいまも橋脚に棲んでいる。

 幼虫達の仲間、幾人もの少女たち。

 朝日が射して、しゃ、しゅわ、紙がふれて響く。水の仲間がめずらしそうに、紙にさわった。

 記憶の匂いは何処?

 石底の虫の、棲家?

 記憶のなかで甘い石々。

 船食虫達の着物のひかり。橋の下はいびつな建物だから、橋下にいて、草叢に尻をつけ石っころは夏の想像にふける。

……

 で、始まります。

 ここでは、一つのイメージから、記憶を遡り、自分の心象へと入ってゆくようです。

 作者は注意深く見つめます。音楽的な感じがします。風景やイメージが音楽のようです。

 

 いまのぼくの力では、この詩集について、分析とかすることはできませんが、たしかにこれ以前の詩集とは調子が変化しているようです。ひとつのターニングポイントになった詩集かもしれません。そしてこの後、詩人と外部の「風景」に対する関係が変化してゆくことになるのだ、と思ったのです。

 

………………     ………………     ………………     …………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 誰もが、穏やかで、平和でありますように。