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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『続 白石かずこ詩集』(現代詩文庫125)のエッセイ「長篇詩に挑むもの」まとめ

 おはようございます。

 

 昨日の飯島耕一吉岡実の、白石かずこという詩人の詩人論に続けて………

「あまりパッとしない"解説"」という飯吉光夫という人が書いた『聖なる淫者の季節』の作品分析があって、これは、エリオットの『荒地』と読み比べていて、白石かずこの詩の根源的な部分をとりあげた良い文章ですが、その冒頭に、白石かずこ日本読書新聞のインタビューを受けて語った言葉が引用されています。

 

「詩を書き始めた頃、わたしは大変な短距離走者だったんです。四行か五行、一〇行という詩を一瞬のうちにパッと書くのが得意だったんです。だけれども、その一瞬の切り取りの後に何か落ちてしまうもの、それだけでは捉えることのできない何かを、映画のフィルムを延々と回し続けるみたいにして、捉えてみたいと思いはじめたんです………そうすると、以前は写真の詩を書くみたいに一つ一つの角度からみていたのが、今度は、その意味重ねられた角度そのものがみえてくるというように、客観的に自分をみつめることができるし、切り落としたものから自分をエスケープできないということがあるんですね 」と語っている。処女詩集『卵のふる街』や第二詩集『虎の遊戯』(60 思潮社)のころの短詩と、第三詩集『もうそれ以上おそくやってきてはいけない』(63 思潮社)以後の長篇詩を、それぞれ一枚の写真と、映画のフィルムにたとえていて、長篇詩集『聖なる淫者の季節』についての、構成上の説明はこれで十分だろう。(P152)

 

 そういうことを前提として、エッセイとして載せられている「長篇詩に挑むもの」の文章をまとめてみることにします。

 

 ぼくも長篇詩を書くことに憧れています。役に立ちそうです。

 ぼくもどこかで書いたと思います。詩は静画、小説は動画、だという定義みたいなことを。

 

  • 詩はまさしく絵のようなものであり、ひとつのイメージに収斂されるものです。心に焼き付いて離れないものです。
  • 小説や物語は映画のようなものであり、それらの動きやリズムが訴えてくるものです。

 

 ………………      ………………      ………………

 

 白石かずこさんのエッセイから

 

 珠玉の短篇に似る短い詩。普通、詩といわれるものは、一枚の写真のようなものである。そこに収まる。そこは小宇宙。完璧に充実したひとつの世界だ。

 が、同時に一枚の詩、写真である。

 一枚の写真が動いて、つづいていくムービー。数百、数千、数万の写真が、それぞれ別個に独立しながら、相互に関連もち、動き、走り、ひとつのアートをつくるところの映画。

 長篇詩は、一枚の写真より、うごく映画に近いかもしれない。(133) 

 

 

 あえていうなら、構築する大工になるのではなく、疾走する騎手になる疾走詩である。

 農耕民族ではなく騎馬民族の生活形態に似ているかも知れない。

 疾走しながら、詩句を拾い、詩霊に出逢い、同時に詩行を走らせるのである。

 ときには、詩でない行がでてくる。

 普通、詩行とされていない行である。

 例えば、電文がそれである。また天気予報、日誌にかかれたメモなどが容易に、詩行に参加し、参加することにより、詩にコラージュされ、詩となる。

 わずか五行とか五十行の詩とちがい、数百数千行の長篇詩は大河のようなもので、途中で道草や道楽ができる。これらのハプニングを遊ぶことができる。

 ここでジャズのインプロヴィゼーションを想いおこす。(P134) 

 

 

 この時、問題になるのは、走法と呼吸である。

 一万メートルを走るか、歩くかで、また詩は、かわってくる。

 わたしが、一番、最初に身近な接点をみたところの西脇順三郎の永遠をうたっている長篇詩はと、歩いて、散歩し、ステッキをもち、たちどまり、景色を眺め、詠嘆し、永遠をみる詩であった。

 これは徒歩で、散歩する呼吸が詩になっていて、ムリがなく、息切れは聴こえない。

 アレン・ギンズバーグの「吠える」や「カディシュ」は、まさしく叫びや絶叫が、呼吸音になり、リズムになっていた。

 疾走するスタイルのうしろには、ビート詩のダッシュする砂けむりが、どこかで影響していたかも知れない。

 疾走すること、音楽すること、流動すること。(P135)

 

 

  既に、想像され、できあがっている宇宙にフレームをつけて、詩をかくのでなく、全くフレームなどつけようもなく、その中へ入り、旅をし、探索し、できれば可能なだけの行数を惜しげもなく使って歩きまわり、かいていく詩。(P139) 

 

 

 この引用で、白石かずこさんがいいたいことがわかると思います。

 ぼくも長篇詩が書きたいので、心に銘記しておこうと思います。

 

 

 

    ………………      ………………      ………………

 

  読んでいただいて、ありがとうございました。

 誰もが、穏やかで、平和でありますように。

 

 来週も、白石かずこさんの詩『聖なる淫者の季節』を読みます。また3日に。