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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

村野四郎の詩 続き(純粋性)

 おはようございます。

 

『抒情飛行』は昭和17年に刊行された詩集です。戦時中なのです。時代の影響もあるでしょう。それでも詩が詩人の心を確かめ、存在の仕方を検証している役目を果たしているようです。

   「晩い夏」

…………(略)

道は荒草の中に消え

ふたたび

平凡な森の入口に現れる

このふるい道の上に

いかなる人達の足は果てたであらう

……(略

 

 のような存在とか歴史とかを思い起こさせる描写、はすてきです。

 

くらい土の上を風が吹く

そして私のよごれた夏服の中では

このやうに新しい血がさわぐ

身体をのぼつてゆくこの熱いものは何だろう

……(略

 

  そして私を道のダリアに喩えるのですが……ここでは……何気ない風景に交感している作者がいます。

 

 詩はそれでいいのでないか。

 難しいものじゃない。

 道に歴史を思い、古い先祖につながる何かを思い、自分が生きていることを実感できたらいいのでないかと……

 

 村野四郎が描いたのは心象風景です。ある意味、宮沢賢治の心象スケッチのように冷静に自らの心を捉える。

  • 感傷的なものや、思い入れはない。
  • また過剰な人生論や社会論もない。
  • 自己がなにか、だけを追求しているような気がします。

 

 村野四郎はエッセイなどで「純粋性」という意識や方法論をいい、それによって社会や時代に対峙しようとしていた……と書いてあります。(日本の詩歌21 P214)

 前号で社会風刺ということがいわれていますが、『抒情飛行』の第3章に当たる部分が、村野四郎の言葉によれば……

『近代修身』の作品群にあらわれている抵抗は、けっして政治的な目的ないしは意欲のために生まれてきたものではなく、一個の純粋な人間として、その時代を真実に生きようとする一つの精神の兆候としてあらわれてきたものです。私は今日でも、それが純粋な詩人のあり方だとおもっています。 (「現代詩読本」から) 

 

  • 純粋性による抵抗

 

    「農夫」

荒々しい蔬菜の

たかい棚をくぐって

あの人はどこへ行ったか

暗い足どりで出て行った

不幸の中で

唐黍の赤い房はゆれ

撫子のさいたベンチは

あの人の見えない処で草に埋れた

あの人はただ無意味の無限をひいてあるいた

もはや不幸の中でなければ

生きられなかった

       (一連)

 

 二連では、おしっこをしに行っただけだ、と描写されるのですが……(^^ゞ

 この自己が持つ切実さと、時代の風景との対峙。小さなものと巨大なもの。運命的に不幸であること。そういうことを考えさせる詩ですね。

 

 けっきょく、書くきっかけになるものは、なんでもいいのです。どこへ行けるかが大事です。

 

 

………………      ………………      ………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 すべて穏やかで、平和でありますように。