読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

村野四郎の詩……(機能美)

 こんにちは。

 

 村野四郎の詩について考えます。

「近代詩から現代詩へ──明治、大正、昭和の詩人」(鮎川信夫 思潮社文庫2005)には、村野四郎についてこう書かれています。

 村野の詩的出発は俳句にはじまっているといわれているが、技巧に対する意識は、たしかに歌俳の詩人に近く、いちじるしくクラフティである。そこが、西脇(順三郎)といちばん違う点であろう。新即物主義の時代(『体操詩集』)、風刺精神の時代(『抒情飛行』の中の「近代修身」)、実存主義の時代(『実在の岸辺』、『抽象の城』)等々、それぞれの時代的環境に応じて知的にはかなり違った思想内容を持つ時期を経験しているが、技巧の意識を大切にしてきたという点では、はじめから一貫したものを持っている。

 西脇は新しい方法を発見した詩人だが、村野はそれを利用する詩人である。方法の利用という点で、村野は達人である。ひとり西脇の方法だけではない、知れるかぎりの詩的方法を活用して、ほとんど科学的冷静さで詩を作っている。これまで近代詩が試みてきた実験の成果が、実に多くとり入れられており、しかもいっそう洗練されたかたちで提出されている。(P161)

 

 

 詩人が長い人生の間で、思想的に変遷するのは納得できます。

 それでも、詩を支えてきたのは詩の技巧であった、というのです。

 

  • ぼくには、村野四郎の詩は、形態美=フォルムを捉え、描くという方法のように思えます。
  • 外側と、内面という内側から描かれる対象物の、形態美のように思うのです。

 

『体操詩集』の「鉄棒」のなかから一篇を。

海岸で僕は

木に干された敢ない章魚を知っている

僕も空に吊り下げられた

僕をささへる仮設の鉄棒

思想が下りて

鼻から逃げた

僕はシヤツクリをして

風景を蹴とばし

空へ冒涜を敢てした

…………

    (略)

 

 ここでは最初に「海岸に干された章魚」のような……という比喩が置かれる。内面から見た鉄棒の心象の風景です。

 描かれたのは「運動の機能美」だと思う。「風景を蹴とばし」「空へ冒涜を」加えるのは、外側から見られる美。ひとつのコマ割りのように、連続した運動は積み重なり、スピードを増し、結論へ導かれるのです。

 

 確かに技巧的だと思う。計算されている。美しい。

 無駄な部分がない。

 

 

 こういう簡潔な詩を書いてみたいと思うのです。

 

………………      ………………      ………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 今日が誰にとっても、穏やかで、平和な日でありますように。