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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『近現代詩を学ぶ人のために』12章を読む

 おはようございます。

【第12章 四季派と戦争詩】のまとめ

(1 はじめに)

  •  1933年頃にはプロレタリア詩を書くことも弾圧された。
  • 小熊秀雄『詩精神』(1934~35)も終わる。
  • 1931年『詩と詩論』廃刊。
  • それに変わるように『四季』が昭和10年代を代表する詩誌となった。
  • 時代は戦争へと向かった。

 

(2 『四季』の詩人たち)

  • 第一次『四季』は1933年5月に創刊されたが7月に2冊目が出て終わった。
  • 第二時『四季』として1934年に月刊誌なる。堀辰雄三好達治丸山薫の編集。1944年の終刊まで、81冊を出した。
  • しかし同人の多くは、かって『詩と詩論』の詩人たちでもあった。モダニズムの詩論も理解し、海外の詩に学び、知的、都会的感覚を大切にした。
  • 丸山薫は、『詩と詩論』で、即物的手法とイマジズムで詩を書いたが、参加した後も、変わっていない。
  • 津村信夫の「小扇────嘗ってはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に」は短詩形のうちに映画のモンタージュせる手法で知的な叙情を切り取っている。
  • 三好達治は『南窗集』で四行詩の形式で、モダニズムの叙情を書いた。
  • 中原中也は距離を置いた。破調を恐れない詩の書き手だったからだろう。
  • 同人には「感情詩派」の朔太郎や犀星もいた。朔太郎は詩には音楽が必要だ、という詩論を持ち、春山と論争していた。朔太郎に支持されたのが伊東静雄である。
  • 『四季』は一枚岩の運動体ではないといえる。

 

丸山薫 | 詩のある暮らし Blog

 

Viento 〜おおいたの風〜 2004 Spring Vol.4津村信夫

 

作家別作品リスト:三好 達治青空文庫

 

作家別作品リスト:中原 中也青空文庫

 

 

 

(3 立原道造────『四季』の〈幸福な才能〉として)

  • 立原道造は1939年3月に24歳の生涯を終えた。
  • 堀辰雄から「童話的なものに裏打ちせよ! (裏側に生活がなければいけない)」「Rilke(リルケ)の詩のよさがわかるようになること」(昭和8年ノート)といわれたという。
  • 『四季』では積極的にリルケの紹介が行われた。
  • 立原道造堀辰雄論「風立ちぬ」を書き、師を批判。『コギト』に傾斜していく。

 

立原道造 萱草に寄す

立原道造 暁と夕の詩

 

(4 日本浪漫派と伊東静雄

  •  『コギト』(1932・3~44・9)の中核にいた保田興重郎は『日本浪漫派』(1935・3~38・8)において、古典の探究を通して伝統と民族の誇りを取り戻し、不安な時代の活路を開こうと主張した。
  • 『わがひとに与ふる哀歌』の伊東静雄と、『西康省』の田中克己はコギトの同人だった。

『わがひとに与ふる哀歌』の

太陽は美しく輝き

あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ

手をかたくくみあわせ

………(略)

 を、朔太郎は賞賛した。

 

 翻訳文のようで、決して滑らかなうたいぶりではない、明るく始まった詩句も第二行で留保されてしまう。自然はあるがままに美しいのではなく、「希」う人間の想いがあってはじめて、そのように立ち現れてくるという、逆説と「イロニー」がそこにはあった。

 ここにいう「イロニー」とは、反語法という修辞の意味にとどまらない。それは保田與重郎がシュレーゲルら、ドイツ・ロマン派から学んだ思惟の姿勢として、「イロニーとは何か、混沌の一つの母体である」「すべて、未形で漠然で、又つねに反対する二つが戦ってゐる状態である」(保田與重郎「日本浪漫派について」1939年)とのべているように、目の前の状況を否定し、未決定の場に身を置くことを指していた。(P206~)

 

伊東静雄 わがひとに与ふる哀歌

 

伊東静雄 詩集夏花

 

『夏花』は、かっての翻訳調はなくなり、古典の修辞を取り入れたことで、端正な、凝縮度の高いものとなっている。

………

 伊東静雄の第三詩集『春のいそぎ』(1943年)になると、詩語は平明になり、短歌的韻律がますます濃くなってくる。そして「イロニー」のもたらす激しい葛藤は次第に影を薄くしてゆき、彼もまた、戦争史の執筆に向うことになる。(P209) 

 

 

 

 

(5 戦争詩とその背景)

  • 1930年代は戦争の時代だった。国家による文化統制が行われ、戦争文学、国策文学が蔓延するようになる。
  • 1942年、文化報国会が成立。『辻詩集』(1943)『大東亜』(1944)といった詩集が編纂された。
  • 『辻詩集』には200余名が詩を寄せている。

 

 高村光太郎の開戦の日の詩が引用されている。

 

真の日本人となるために 高村光太郎の詩

  

 

 

大東亜戦争詩文集 (近代浪漫派文庫)

大東亜戦争詩文集 (近代浪漫派文庫)

 

 

 

大東亜戦争 少国民詩集

 

 

  •  詩人は個人を基点にして詩を書いてきたが、戦時下に戦争詩を書くことで、国民との一体感を得たような気持を持った。
  • 伝統的な韻律が、聞き手の心情に訴えるのに大きな働きをした。
  • 小野十三郎は「文化組織」で後の『詩論』を連載(1942・2~43・10)し、短歌的叙情を批判した。

  

詩論 (1949年)

詩論 (1949年)

 

 

 (リンクさせていただいたサイトの方に感謝します)

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 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。