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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────詩になる境目

 おはようございます。

 

【8章 詩的境界について】のまとめ

 

 萩原朔太郎の『詩の原理』が説いたこと。(P274~275)

  • 詩はことばの音楽である。
  • イメージ中心の叙情へ。

 

 黒田三郎は、日本の詩人は、「あまりにも T・S・エリオットや、ポール・ヴァレリイや、ルイ・アラゴンについて語っているように見える」といった。

 黒田三郎が思い浮かべていたのは、彼の前の世代、戦前のモダニズムの詩人たちである。(P276~277)

  

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 著者は、詩と非詩の境界にあるものとして入沢康夫の〈擬物語詩〉を解説する。

  • 仮構の語り手が、ある事件の推移あ一貫して叙述する。
  • 現実ではない特色を持っている。
  • 叙述の形をとりながら、しかも、その事件を叙述(伝達)することを目的としない。〈擬叙述性〉

 その作品として『ランゲルハンス氏の島』をあげる。

 このサイトにおおよそが載っています。

(サイトの方に感謝します)

 

 P282~287にかけてはこの作品の解説、分析です。

 

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 またP287からは、谷川俊太郎の『定義』をあげています。 

定義

定義

 

 「不可避な汚物との邂逅」はじめの部分

路上に放置されているその一塊の物の由来は正確に知り得ぬが、それを我々は躊躇する事なく汚物と呼ぶだろう。透明な液を伴った粘度の高い顆粒状の物質が白昼の光線に輝き、それが巧妙に模造された蝋細工でない事は、表面に現れては消える微小だが多数の気孔によっても知れる。その臭気は殆ど有毒と感じさせる程に鋭く、咄嗟に目をそむけ鼻を覆う事はたしかにどんな人間にも許されているし,それを取り除く義務は、公共体によって任命された清掃員にすら絶対的とは言い得ぬだろう。………

 

 著者の分析です。P290

無目的な描写、論理性に似せた叙述は、先に入沢康夫があげた、〈擬物語詩〉の第三の特色である〈擬叙述性〉と同じ性質のものだろう。

 まさしく『定義』の世界とは、ものごとや対象物を正確に認識したり、観察したり、概念または語の意味を定めようとする論理に似せた、まがいものの〈定義〉であるが、しかし、その擬似論理が、たとえ十分に了解していると思っている路上の汚物を、未知のオブジェとして、わたしたちの前に出現させるのである。対象が、『ラ氏の島』のように、非現実性に満ちているわけでもない、日常的な現実にあるものでも、このような擬似論理的な表現において、未知の関係をあらわし、詩を喚起することに、わたしたちは驚いていいはずだ。

 

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 P292からは、高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』をテキストに取り上げています。

しかし、これは決して野球のお話ではない。野球にかこつけて、それを口実にして、わたしたちを無意識に支配しているさまざまなことばや観念のコードを、パロディ、イロニー、言い換え、挿入、誇張法、メタファーなど、ありとあらゆるレトリックを駆使して反転させることだ。(P293)

 

民話や童話調の語り口を借りた物語が、ただ、ものがたること自体を目的としたもの騙りへ変質する過程が、叙述されている。もの騙ること以外にどんな目的ももたない叙述が、詩をかんじさせる。いや、詩そのものの発想だと言っていい。(P297)

 

 著者は、詩と非詩とのあいだの境界にある作品を、三つの例をあげて説明しました。8章はこれで終わりです。

 

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 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。