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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────反喩の詩 3

 おはようございます。

(2 コノテーションの構造)のまとめを始めます。

  著者の、「岩成達也の『詩的関係の基礎についての覚書』をほとんど理解できない」という言葉で始まったのですが、ちゃんと読み込んで批評されています。

 

P255

………わたしには、岩成詩学は竹内の階層化論の一種(変種)とも思えるし、全然、違うものとも考えられる。まず、よく似ているところから言えば、両者とも言語階層化の骨格を、イェルムスレウ、バルト、ヤコブソンなどの考え方を下敷にしてつくっていることがあげられる。ということは第一次言語(デノテーション)、第二次言語(コノテーション)の階層化を受け入れている、ということである。しかし、両者が決定的に違うところは、竹内が〈日常言語〉〈文学言語〉〈哲学言語〉という概念で、その階層性を実体的に区分していくのに対して、岩成達也にはそのような概念はまったく見られず、その階層間を関係としてとらえているように見えることである。この点から言えば、両者の考え方はよく似ていて、全然違う、とやはり言わねばならないだろう。ただ、わたしが疑っているのは、言語を実体的に階層化することだけでなく、関係的に階層化することに対しても、つまり〈デノテーション〉、〈コノテーション〉という、ロラン・バルトが定式化した概念自体である。

 岩成達也が階層化を関係としているのを批判しています。

 

 そして、ソシュール=丸山学説を、イェルムスレウ、バルト的に歪曲された理解ではないかと批判的に紹介します。 (丸山圭三郎フランス文学言語学者)

 ここで、形相と実質の図を描いて解説、説明をしています。P256~257。

 

………もし、岩成の理解のように形相が実質を含んで、シーニュを成立させているとしてら、〈犬〉ということばは必ず、哺乳類の家畜の〈犬〉でなくてはならず、権力の番犬とか、犬蓼とか、犬侍とか、犬死にという、〈犬〉でないものを意味する用法は生まれないはずだ。

 

(このへんは記号学的な考え方の違いということになるのですが………)

 

 P258~261には、

が、書かれてあり、

岩成詩学にはイメージという概念がどこにも見られない。それは彼がレトリックではなく、〈デノテーション〉〈コノテーション〉の言語の階層性で、すべてを説明するからである。(P262)

と批判しています。

 またP262~265において、「パラディグム(潜在的)←→サンタグム(顕在的)の言語メカニズム」を、、

ともかく、〈コノテーション〉の構造においては、ことばの関係において発生する新しい意味も、イメージも、韻律も、すべてが〈〈表現………内容①〉/内容②〉の〈内容②〉に還元されてしまうところに、すさまじいばかりに極端な形式化がある、と言わなければならない。(P256)

と批判しています。

 

(3 多方向回路)のまとめ

 

 この節で岩成の詩作品を引用しています。

「鳥の骨組みに関する覚書」部分(詩集『徐々に外へほか』1972年より)

鳥というものは、本質的には、一つの接触形式だと私は思う。だから、鳥の骨組みのうちで、もっとも入り組んでおりかつもっとも頑丈な部分は、背面の固定部────上腕がちょうど後ろ向きに縛られたような形で固定されている背側のあの不具の部分、上方のおそらくは概念化も具体化もできない非空間に属する部分と、下方の意味はないがなお幾分私達にとり接近可能な擬空間に属する部分とに分けることができる。何、ここで、擬空間というのは、鳥といえども、その骨組みにおける破片性、またその内襞における付着性を免れることができないからである。この意味では、………(略)

  著者はこういいます。

この喩法を拒否した記述そのものが喩法として見えてしまうのは、これが詩作品を主題にした詩作品だからではないか。(P268)

 

 わたしがばくぜんと思いついていることは、〈コノテーション〉の構造とは、いわば喩法を意識しないメタファーという詩的レトリックのことではないか、ということである。(P270)

 

  結論として著者はこういいます。

 ただ、詩的レトリックにせよ、詩的喩法にせよ、その平屋建ての空間には、つねに時代の未知の光や気分が投影したり、風俗が倒れこんできたりして、ある種の流行や類型を生まざるをえない。しかし、そのことにおいてレトリックの死や飽和も意識されることで、みずから解体したり、見捨てられたりすることもあるだろう。………(中略)

 このことは、本当は〈コノテーション〉の構造においても、同じように訪れているはずであるが、そのことばや作品を無限に対象化する志向性が、彼らが〈デノテーション〉と呼ぶ次元を空無化してしまうために、そこから射してくる未知によって、内部的に解体される契機がもてないのである。現代詩が、多方向回路を自在にしえないで、〈コノテーション〉に構造化されてしまえば、孤立と自閉は避けられないだろう。(P271)

 

  この章は、これで終わりです。

 次は「詩的境界について」です。

 

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 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。