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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────詩的比喩論 4

 おはようございます。

 

(5 詩的隠喩について その2 戦後詩の飽和)

 

  • 戦後詩の隠喩は、体験を背景にして、〈未知の像〉を生み出した。
  • 高度経済成長期を経ると、戦後詩を支えてきた体験そのものが意味を失った。
  • それ以後は、根拠を失ったイメージが氾濫することになる。飽和点に近づいた。

 

 著者は清水昶吉増剛造佐々木幹郎の詩を分析します。

 

清水昶「死顔」(詩集『少年』1971年より)

火照る土地に生えそろうハガネの林で

傷ひらく正午ふかくわたしは

失楽にひえた薄い口をしめ

熟れきった泥土にもぐる白蛇ににる

どこまでもくねる軟体に熱は残らず

初冬の河口から唾液のように吐きだされてわたしは

棘だらけの幼年の性たちとどろどろあふれ

まっ白な河面に虚のつるべを投げ労働に集中する青年の単眼

にがくくずれた涙腺にひたる

渇きやすい蛇の眼でたとえば

くらい未婚のなかに

くっぽんの日まわりを育てる姉を見る

          (前半 部分)

 

  • 放埒なイメージの氾濫
  • 火照る土地〉や〈ハガネの林〉が現実的な意味との対応を持っているわけではない。
  • 隠喩のそのようなイメージが成立してしまうと、連想ゲームのようにイメージとイメージの連鎖になる。〈ハガネ〉の連想として〈傷ひらく〉が生まれ、〈傷〉は〈ひらく〉だけでなく〈ふかく〉にも掛けられる。また〈ひらく〉は〈口をしめ〉に〈火照る〉は〈ひえた〉、〈失楽〉は〈熟れきった〉に、〈もぐる白蛇〉は〈くねる軟体〉に、〈泥土〉は〈河口〉や〈どろどろあふれ〉や〈まっ白な河面〉にそれぞれ対応する。
  • それらは単なる放埒なイメージの連鎖であり、筋道の立った意味としてとらえることが不可能である。

 そしてこう分析します。

ここからとげとげしい熱をもった風土のなかで、傷つき冷えた白蛇が苦しみもだえているような幼年の性としての〈わたし〉のイメージを、パズルのようにつなぎあわせることはできるだろう。しかし、その隠喩的なイメージを断片化してしまったのは、意味規範をこわす六〇年代詩の語法である。そのことは〈傷ひらく正午ふかく〉とか〈熟れきった泥土〉とか、〈棘だらけの幼年の性〉とか、〈虚のつるべ〉とか、〈にがくくずれた涙腺〉とかの、イメージをも消去する語と語の暴力的な接合を見てみればよい。つまり、意味としての根底を失った断片的なイメージの増殖、氾濫と視えたものは、まさしく隠喩の方法と六〇年代詩の方法との混合としてあった、ということであろう。そして、そこにまた、隠喩の飽和がそれの不可能へと転換してゆく先も暗示されている。(P。224)

 

 著者の本からの長い引用とることが多くて、すみません。m(_ _)m

 引用したほうが著者の真意が伝わるだろうと思ってのことです。下手にまとめると、違ったふうにとられると思うので………それに引用している部分は、現代詩にとって重要な指摘だと思えるのです。

 

        ………………     ………………       ………………

吉増剛造「疾走詩篇」部分(詩集『黄金詩篇』1970年から)

性器も裂けよ、頭脳も裂けよ

夜も裂けよ

素顔も裂けよ

黄金の剣も裂けよ

この歌も破裂航海船、海という容器もない

文明も裂けよ

文明は地獄の印刷所のように次々に闇の切札を印刷するが、それは太陽の断片であって、毒蛇の棲む井戸であって、虎の疾走であって、自然のなまぐさい香気によって権勢をふるっていることをぼくは知っている

男大蛇が月を巻く、まさに虚空!

光も裂けよ

光、影像人間の幻想に関する魔術的予言にも、その中心に対する深い狂測が発見される

ああ

ぼくの眼は千の黒点に裂けてしまえ

 

  • 〈裂けよ〉という命令形が繰り返される。呪術的。
  • 疾走感が保証されるのは、〈性器〉も〈頭脳〉も〈夜〉〈素顔〉〈黄金の剣〉〈文明〉〈光〉〈ぼくの眼〉も、本来持つはずの意味が剥奪されているからだろう。
  • それらは単なるオブジェとしての〈性器〉であり、〈頭脳〉であり、〈夜〉であり、〈文明〉である。隠喩的なイメージが次から次へと引き裂かれるオブジェとして現前するが、それらはイメージとして形成されると同時に消去される。
  • そこに隠喩の飽和がある。

 

 

佐々木幹郎「花茨」部分(詩集『水中火災』1973年より)

雷雨が過ぎてゆく家

ふみしめた怒りを青い椅子にのこして

歯のない口で笑いながら

苦悩は刃物のように錆びていく

 

くびれた玻璃の影から

冷酒の底におとす独裁は

くらい夢にうかんで燃えさかり

荒れた舌でぬらす煙草に火をともす

 

日照りの中につきあたる

それから

顔をしかめてとぼけている納屋

夕日があたると虹の張る蜘蛛糸を吹いて

びろうどのように病みはじめるわたしに

毒草を咲かせ

汗しきつめた地車を曳き走る盛夏

まだ踵から叫んでいる靴を熱愛する

 

  • 谷川雁の隠喩の方法を濃く受け継いでいる。
  • 雷雨、苦悩、独裁、舌、納屋、夕日、虹、蜘蛛、毒草など、語彙が似ているだけでなく隠喩の方法が同質。
  • 谷川雁には、原始共同体の隠喩によるイメージ化という意図があったが………佐々木においては隠喩の根底は失われている。佐々木の隠喩を成立させているのは、黒田喜夫のような体験の根拠でもなければ、谷川雁のような理念でもなく、〈十分間で、………十年も年老い〉てしまった経験以後の空虚である。だから〈ふみしめた怒りを青い椅子にのこして/歯のない口で笑いながら/苦悩は刃物のように錆びて〉いかざるをえないのだ。
  • 苦悩は刃物のように錆びていく〉直喩の形式が、根底を持たない隠喩に変形して、どれだけ自己増殖していくかだけが成立している。

 

 と、著者は分析して、隠喩は70年前後に飽和状態になったといいます。

 それ以降、詩的比喩はどうなったのかが(6 肯定性としての喩)の節で語られます。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。