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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────詩的比喩論 2

 おはようございます。

 

(3 「荒地」派の比喩論)

  この節では「荒地」派の詩論(比喩論)を紹介しています。

などの詩論・比喩論をあげています。

 

 それらの詩論にあるのは戦前のモダニズムへの批判です。

(ぼくが思うのですが────言葉の衣装としての比喩ではなく、体験に裏打ちされた、意味がこめられた比喩でなければならない、としたのです)

 

 著者は荒地派の比喩論を批判しています。

 それは前号で佐藤信夫の比喩論を批判したように………〈類似性〉や〈比較〉を前提とする比喩論では、詩における未知の像を出現させることはできない、と考えているからです。

 

佐藤信夫の『レトリック感覚』と同じように、二つのもの〈概念〉の比較ということが、直喩や隠喩の共通の前提になっている。………(P205) 

 

加島・北村の「詩の定義」は隠喩も、《一つの言葉を、通常の意味から別の意味へ移す》という意味論の脈絡で説明している。

 そして、「詩の定義」から以下の文章を引用しています。

「移す」とはどういうことかといえば、具体的には新しい言葉の関係を作る、ということになる。「時間」という言葉と「短い」「長い」という言葉のあいだには関係がある。つまり意味を「移す」ことなしに、これらの言葉はお互いに結びつく関係にある。さて、「凍る」という言葉と「時間」という言葉のあいだには何の関係もない。しかし「時間が凍る」といえば「凍る」という言葉の意味が「移され」ている。つまり新しい言葉の関係が作られたわけである。(「隠喩について」)

 

 これを著者は批判しているのです。P208。

「意味が移された」のではない、意味規範を破って、〈時間が凍る〉と表現されたことで、時間は凍るものとしてイメージ、視覚化されたのではないか。

 著者は、未知の像の創出とみているわけです。

 

さわやかな朝の風が

おれの咽喉に冷たい剃刀をあてる

          (鮎川信夫「繫船ホテルの朝の歌」部分)

 〈朝の風〉自体が、時代や状況のメタファーになっており、その〈朝の風〉の感触が、〈冷たい剃刀〉のイメージとしてつかまれたと理解すべきだ────

 

繃帯をし雨は曲がっていった

        (田村隆一「秋」部分) 

  雨が繃帯をしているイメージの直接性のうちに、田村隆一の戦後の現実があった────

 

       ………………     ………………       ………………

P209

 鮎川信夫の『現代詩作法』の比喩論も、この加島・北村の「詩の定義」の理解を、ほとんど全面的に踏襲している。それは黒田三郎の『現代詩入門』も、中桐雅夫の「よい詩とわるい詩」『詩の読みかた詩の作りかた』においても共通した態度である。………比喩論において、ほとんど共通した理解に立っているということは、彼らの詩観だけでなく、それにある面では規定されている作品を考える上でも興味深い現象であろう。

 

鮎川信夫シュールレアリスム(→モダニスム)との関係で、もっともきびしい論理に立っている」と著者はいい、鮎川信夫の文章を引用しています。

 

 しかし、シュルレアリストの表現の方法は、「異質のもの、あるいは異質の〈観念〉の暴力的結合」であり、そこには〈秩序〉の意識が全くないのです。そして、人間心理の無意識領域に関するフロイトの学説の誤った適用は、いたずらに言葉の混乱を膨張させるのに役立っただけでした。シュルレアリストの隠喩的表現は形のうえでは「隠喩」であっても、詩の「隠喩」ではなく、そこには「一つの言葉を、通常の意味から別の意味に移す」という働きがほとんどありません。そこには、異質なもの、あるいは異質の「観念」を同時的平面的に並置しただけの、一種の型があるだけなのです。(『現代詩作法』)

 

  黒田三郎も、『現代詩入門』の中で、「現代詩になぜ暗喩は必要か」「直喩と暗喩が生きるとき死ぬとき」の二つの項目をたてている。黒田の隠喩理解も、それを〈意味変化〉としてとらえるところに共通性があるが、ただ、彼のウェイトの置き方には微妙な差異がある。

 と、著者はいい、『現代詩入門』からの文章を引きます。

 ただ、抽象的に言い得ることは、詩はことばという日常使用するものによって非日常な世界を表現するのであり、暗喩はこの日常的なものを使って、非日常的なものを表現する最も重要な方法であるということである。 

 

  •  荒地派の隠喩法が、もっとも生き生きとした作品世界を生み出させたのは、黒田三郎においてだった
  • 彼のメタファーは、著しく直喩的であり、意味規範が壊されることはなかった
  • メタファーを、日常の言葉のなかで使うのではなく、抽象的な言葉の関係で使った田村隆一とは対極の関係にある

死は異様なお客ではなく

仲のよい友人のように

無遠慮に僕等の食堂や寝室にやって来た

            (黒田三郎「死のなかに」部分)

石の中に眼がある

憂愁と倦怠に閉ざされた眼がある

         (田村隆一「皇帝」部分)

 

 

 

 荒地派の比喩論についてのまとめでした。

 まだ詩的比喩論は、戦後詩→現代詩を巡って続きます。

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 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、25日に。