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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────詩的比喩論 1

 おはようございます。

 

【6章  未知の像────詩的比喩論の試みのまとめ

(1 一般的比喩について)

 まず、萩原朔太郎の『詩の原理』あ引用しています。そして、こういっています。

 言語として、朔太郎の《詩的に感じられるもの》を考えるとすれば、わたしたちはその珍しさとか、異常さが未知のことばの関係の出現としてなることに気づく。つまり、詩作品の〈語り手〉が、詩人をも読者をも、共に拘束している意味のネットワークから、それの切断であれ、ずれであれ、無化であれ、ことばを魅惑的にはみださせて、未知なるものを出現させたとき、たぶん、詩が感じられるはずだ。朔太郎の《非所有へのあこがれ》や《夢の探究》は、そのようなことばの関係の上に翻訳されるべきであろう。

 そして、言うまでもなく、その意味のネットワークから、魅惑的に未知を出現させる魔術の一つが詩的比喩である。(P187)

 

 そして著者は〈未知を出現させるもの〉を巡って、一般的に直喩といわれるものが詩的比喩に適さないかを述べるのです。

………ここから直喩は、未知を出現させようとする詩にふさわしくない比喩の形式であって、むしろ隠喩表現が詩にふさわしいという考え方が、詩人たちの間にもかなり広く認められる、と思う。この考えは、必ずしも論理的根拠がないわけではないが、しかし、隠喩でありさえすれば詩的比喩だ、ということにはらない。むしろ、新聞の見出しや広告には、非詩的な、ステレオタイプ化した隠喩があふれかえっているのであって、その意味でいまは隠喩の時代である。なぜ、隠喩はステレオタイプ化しやすいのか。(P191)

 そして、佐藤信夫の『レトリック感覚』での隠喩の定義をあげて、

………意味がわかるということが前提になるなら、隠喩は類似性に依存する度合いを強めねばならず、当然,ステレオタイプ化しやすい比喩だということになるだろう。(P194) 

 といいます。

 著者は、〈類似性〉や〈お互いにわかっていること〉が前提では、詩における未知の像の出現はない、と考えているようです。

 

(2 詩的比喩について)

  しかし佐藤を評価もしています。以下の部分。

………古典レトリックにおいて、直喩は、二つのものごとの類似性にもとづく比喩である、と考えられてきた。現代のレトリックでも、この考えは広く認められているが、《けれども、ここで私はそれを逆転させ、類似性にもとづいて直喩が成立するのではなく、逆に、「直喩によって類似性が成立する」のだと、言いかえてみたい》と、彼は述べるのである。(P195) 

 そして佐藤が例としてあげた太宰治の「メリイクリスマス」の場面を、

直喩という形式を借りて、〈語り手〉が描きだした鳥のイメージは、イメージ自体はありふれたものだとしても、意味としては未知の出現としてあるように思う。 (P196) 

 と分析しています。

 

 そして、詩における隠喩が、どのように未知の像を提出している、それぞれの詩を引用して分析しています。

すべては過ぎさる

しかし黙ってすれちがう一瞬にも

なんという美しさを見出すことだろう

黒い喪服をつけた男の

悲しみに青ざめた額のうえに

たとえば小さな捲毛の渦をみつけたような!

            (鮎川信夫「行人」第四連)

  このしについて著者の分析です。

  • 6行に渡る直喩
  • 前の3行が、男の額の上の捲毛に喩えられている
  • 一瞬の美しさという共通性、類似性
  • しかし比較することそのものが直喩になっている

 

肉体よりも もっと無口で重たい精神

精神よりも さらに冷ややかで重たい鉄

それを高々と持ちあげる若者の莞爾たる苦痛

「重量あげ」は

おそらく人間が最初に競った古い技であろう

力持ちのさびしさ!

           (安西均「Citius,Altius,Fortius」第一連)

 

  •  1行目……〈無口〉〈重たい〉は通常の意味でなくメタフィジカルにずらされている
  • 〈精神〉も視覚的な像として捉えられている
  • 2行目でこの〈精神〉は〈鉄〉の感触や重量と比較される
  • 比喩としてしか可能にならない、不可能な重量

 

現代詩における詩的直喩は、詩的隠喩と合成して使われていることが多い。それを混合喩と呼ぶ例もあるが、そもそも詩的比喩においては、二つの比喩の組み合わせ、混合の方が常態だと考えた方がいいかも知れない。

        ………………     ………………       ………………

 

 

ここでわかれることに

する

みぎへ行くにせよ

ひだりに行くにせよ

きみはもう

かえってきてはならぬ

ぜんまいのような

のびちぢみに

いちにちやふつかは

耐えるにしても

のびきったところで

それはおわるのだ

怒りのようなものが

いっぽんそびえていて

生きのこった男は

ゆっくりと靴をぬぐ

        (石原吉郎「死んだ男へ」部分)  

 

  • 最後の生が、くたびれたぜんまいののびちぢみのイメージに喩えられている
  • 文脈全体が最後の生の状態を表しているのなら、全体が隠喩といえる
  • 「怒りのようなものが」は直喩のふりをしている隠喩である

 

ナロードの祈りに似た

ねばい朝のミルクの

垂れてくる安堵の色つやをながめ

冴えわたる胸線一杯に

死の行為は重く

耳朶は光をおおい

噛み切られたひとすじの黒糸のような黙禱のなかで

単眼は精神の円卓を巡る

           (佐々木幹郎「死者の鞭 I 橋上の声」第一連)

 

  •  祈り、安堵、痛恨、孤絶などの感情が混じった一連全体が隠喩としてのイメージであるといえる

 

 

 明日は「3 荒地派の比喩論」を読みます。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。