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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────詩的意味論 3

 おはようございます。

 詩的意味論を展開している部分は、この本の非常に重要なところだと思うので、詳しく読んでいます。

 

(5 《心の声》あるいは〈てにをは〉)

 P172で著者は、時枝誠記の『国語学原論』にかかれている、江戸時代の国語学者鈴木朖の「言語四種論」を紹介しています。

 またP174では三浦つとむの『日本語はどういう言語か』 

日本語はどういう言語か (講談社学術文庫)

日本語はどういう言語か (講談社学術文庫)

 

 に触発されたことを書いておられます。

詩歌が、その評釈のレベルも含めて、一語の助詞の用法にこだわるのは、そこに〈語り手〉の《心の声》の微妙な差異、意味の変化が表現されているからである。特に短い詩型である短歌や俳句において、一字一句の助詞の用法が決定的な意味をもつことは多いだろう。(P176)

 

(6 ナンセンスの出現)

  ここでは、中江俊夫の『語彙集』を引用されています。

山野 松造

杉山 頭吉

富山 林太郎

谷沢 鮎介

岩尾 豊見

鹿峯 明子

槍角 増代

三枝 葉子

猪林 影子

榊山 繁美

          (「語彙集第二十七章」一連)

 この詩の解説を引用してみます。P178

 ただ、人名を並べただけ。中江俊夫の『語彙集』の中でも、もっとも平板で、そのことが過激であるような試みである。ほんとうはただ人名を列挙下だけではない。山とか谷とか峯とか、それに関係する植物とか動物とかに縁のある人名が集められている。人名の歴史的虚構性が、大きく自然界に依拠していることがわかる。これが詩か。メモ用の手帳に沢山の人名が記録されているとして、それが詩ではないという意味では、詩ではない。しかし、この並列された人名は、どこのだれか、実在するのか架空の名か、何のための記載かという現実的な属性をはぎとられている。そして、これが詩ではないにしても、詩的行為であることを示すために、余白とともに出現させられている。

 ここには、意味のずれでもなければ、意味の虐殺でもない、ナンセンスがある。………(P180) 

 

  また、谷川俊太郎の『よしなしうた』から

ぬくぬくと ふとって

かるがると たのしそうに

けいとの たまが

よつかどを まがる

ちずも もたず

まほうびんも なしで

あみぼうを おきざりにして

ああ はしをわたってしまった

けいさつしょも とおりすぎた

けいとの たまは

もうひとつ かどを まがる

さんねんまえ には

きれいな てぶくろだったのに

ちゃんとゆびも そろっていたのに

           (「けいとのたま」)

 

 そして、「このナンセンスと、次の岩成達也の詩が見せているそれとは、通底するものがないだろうか」といって、「顎の筋肉についての二、三のメモ」をあげるのです。

頸の部分の表皮の下にあふれるもの、それはあきらかにある種の流動質である。それはまずなによりも、筋肉や神経叢のすきまをみたし、それらの捻転やこまかい上下動を円滑ならしめる。だが、流動質のものが水や気体のようなものと考えるならば、そは正確さを欠いている。流動質のものは、実際には、むしろ粘膜である。それは筋肉や神経叢に触れるところでは密度が濃くなっており、ことに腱などの擦れあう内頸の下の部分では、かなり粘着力のあるゼラチン質のものに変わっている。そして、激しく運動した後などでは、ゼラチン質の所々に、更に、赤みを帯びた角質の粒状の凝固が生じ、それが急激に増加する場合には、逆に鈍い疼痛とともに、元のゼラチン質をも破壊する。いずれにしても、夢とか筋肉の深いところとかで、極端に複雑なものがおどろくほどなめらかに移動するのは、主としてこのような流動質のものの働きによるのである。

                                                            (部分)

 

 著者は、

いかにもその性質を説明しているようで、実際はただ擬似的な論理があるばかりである。……… 

 と書いています。

それは「現実のどこにも還元を許さない流動質というナンセンスなのではないか。

 

        ………………     ………………       ………………

 

 一般的にいえば、谷川俊太郎の詩はナンセンスだけれど、中江俊夫や岩成達也の詩はナンセンスとは違うものだという気がしますが………楽しくないし、なんのために書かれたのか意味不明です。それがぼくの感想です。

 

 詩論が先走りしている気がするのです。

 

       ………………     ………………       ………………

 

 著者の詩的な意味を追求する態度は立派だと思います。

 ぼくに、現代詩手帖に載っているような詩がどういうものを狙って書かれているのかを、教えてくれました。その分析や解釈がなければ、おそらく、でたらめで嫌だなあ、という感想で終わったと思うからです。

 

 もうひとつ、よかったのは山本陽子の詩を知ったことです。

 詩を書くことが、その文脈を破壊するまでの表現行為としてあるということ。

 それでも詩を書いたのは、それだけ、わかってほしい、誰かと通じ合いたいという想いがあったからだと思うのです。

 山本陽子の詩は………

のようなものではないでしょうか。神様への訴えのような気がします。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。