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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────詩的意味論 2

 おはようございます。

 

(3 シンタックスの揺らぎ)

吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』が、言語の意味を問うて、卓抜だったと思うのは、意味がわからないという逆の側から、これに接近しようとしたからである。(P153)

  意味がわからない例として

  1. 古事記』の中の古典詩
  2. 島尾敏雄の小説『夢のなかでの日常」の隠喩的な表現
  3. 清岡卓行の詩「氷った焔」のシュールレアリスム風な表現

をあげているそうです。

この三例において自己表出と指示表出の構造を言語本質とする立場から、1の例は、言語の自己表出の歴史としては了解できても、指示表出としては、死滅している、2は自己表出の励起にともない指示表出が擬事実へ変位している、3は自己表出の拡大によって指示表出が包摂されていることに、それぞれ意味がわからない理由を見た。そして、ここから彼は、これらに共通しているのは《指示表出が、何らかのかたちで死滅したり、歪められたり、また覆われたりしていることが、意味がわからないということと関連していいることである》と結論づけている。(P154)

と、書きながらも、著者は以下の主張をします。大事なことなので、長いですが引用します。P154~

………なぜ、詩作品において意味は必ずずれるのであろうか、ということだった。一般的にはずれていると思われていないリアリズム風の作品でも、よく考えてみると平叙文や会話の中のような意味の在り方をしていない。そればかりか平叙文や会話の中でも、たとえば辞書の中の語の意義通りには、意味は使われていない。個人の言語生活の場所では、意味は辞書の中の語の意義に象徴されるような、共通性として抽出されるような一般的な意味,意味規範から必ずずれるところに発現するのである。従って意味のわからなさは個人が発語する場所ならどこにでも起こりうる。

 つまり、言語表現における意味とは意味規範(→言語規範)からのずれを本質としており、そもそもわからないものではないのか。しかし、逆に言えばずれが発生するからこそ、言語規範は視えざる社会的な制度として強力な支配力をもつのである。詩はその意味のずれを詩的レトリックとして方法化することで、その言語の制度的な在り方に揺らぎと流動を与えようとする。とすれば、意味のわからないということは詩にとって本質的な問題であろう。

            (強調部分は、ぼくがしたものです)

 著者も書いているのですが、P155

つまり、わたしは吉本が指示表出として見ているところを、意味の規範的な在り方と発語との関係として考えようとしている、と言ってもいいだろう。 

  1.  古典詩の意味のわからなさは、古代の意味の規範的な在り方が、今ではわからなくなっているから、そのずれも了解しえない
  2. 島尾敏雄の隠喩的な表現は、意味規範に対する意味のずれを拡大しているのだから、イメージとしての理解が要求される
  3. 清岡卓行のシュールな詩の表現は、意味規範に違犯の関係なのだから、直接的に意味を受け取ることは困難である

としています。

 

 そして天沢退二郎の詩を引用します。

樽はペー中毒の道の上でなら愛せる

ちぎれかけためだまはそのとき

砂まみれのよだれを引きのばし

首のながすぎる少女のチラと裂けた海面に

縄のさきは触れては離れ

音のしない終わりのない物語の輪を

短い針で放ちつづける

         (「樽きちがい」はじめ部分)

 

 この詩の著者の解説です。P157

 しかし、天沢の「樽きちがい」において、〈語り手〉は、意味規範に違犯する関係を、イメージとして表すだけでなく、イメージを出現させるメタファーという規範性にも違犯する。語と語の偶然的な連結をつくりだそうとしているのである。むろん、そのことによって、語(の連接)は、メタファーというレトリックの規範に違犯することで、意味規範にも違犯する。たとえば《樽はペー中毒の道の上でなら愛せる》の〈樽〉と〈ペー中毒〉と〈道〉と〈愛〉は、それぞれまったく関係のない語の接合である。それでもまとまりのある記述の見せかけをもっているのは、〈は〉〈の〉〈でなら〉というような助詞の使い方が、言語規範に従っているからだろう。助詞や助動詞や修飾関係の規範的な在り方だけを基盤にしながら、イメージとしてすら出会いが不可能な、遠い関係の語と語を出会わせる。この詩の解体をかけた試みに、天沢の初期の詩の新しさと衝撃があった。

 

 ところで、天沢の試みたような方法は、一時、沢山の亜流や模倣者を生んだ。………

詩のことばが一歩踏みはずすとでたらめと化す、そのぞくぞくするような快感は、同時に類型化しやすい袋小路でもあったのである。そして、もしこの先があるなら、………言語規範に対する違犯の関係ではなく、それ自体を解体させることであろう。それはことばが単なる音や形態の羅列と化した状態である。(P158)

 

 ここで鈴木志郎康が初期に作った「口辺筋肉感覚説による抒情的作品」を紹介しています。

グロットマンティカ/グロットマンティカ//ニーペボルトペイン/イイイイイイイイ/エルソ/マソトムーネ(作品2)

 

私は人妻が手淫していた

私は老婆が手淫していた

私は女性労働者が手淫していた

私は人妻が手淫していた

私は牛乳びんが手淫していた

私は時計が手淫していた

           (「月」部分)

 

 著者はP160で、こういっています。

詩は自覚的に文法に違犯する。詩は意味のずれを表現しようとしていても、意味の伝達を目的としていないからだ。

 

 それにしても、鈴木志郎康までは、文脈が壊されていても作者の言いたいことが隠されているように思って、おもしろいと思うのですが………天沢退二郎のように、何の関係もない詩句のつながりには、イメージの混乱と意味の無さ=ナンセンスとも違う自己中心性を感じて、ぼくは不快な印象しか持ちません。言葉が大事にされていない、と思うからです。最初から、読者にわかってもらおうとする、共感する心を持たないように感じるからです。

 

 

 (4 意味の虐殺)

 P162

………詩が単に意味規範に対する侵犯ではなく、ここで予感されているように、言語規範そのものまで解体しようとするとき、ことばは意味のずれではなく、〈意味の虐殺〉にまで至りつく。 

 として、P163に山本陽子の『青春────くらがり』の冒頭部分を引用しています。

  背 こごめ、       まわる、みがちへ

          半躯へ、ひくみ

       腰部へと おもみかけて

            骨組みの半ばがささえる み

        脊椎へ あつまる 去行来去の

       ざわざわしさを 憾じながら

         石舗道の突端へ

            座している

 

………待つ

          へ、めぐる 進み、まわる球

      溶解 融合しつ、

         灼熱ともえあがる

     白熱と化しつ

         焔、めくる、めき

   変ずる、光 放ち

      ………

    ………          

                    ────(略)

 

 

 そして、「これを、詩ではなく、病的な発語障害として眺めるなら、フロイトの次のような文章が………」とフロイトを引用していますが………

 その詩句の内容と意味、つながりを詳しく分析しています。どういうふうにイメージが展開しているのか、を3ページに渡って書いています。

 

 

 P169には、こう書いています。

 かつて、天沢退二郎は、『青春────くらがり』より前に書かれた作品「『し』と間隙」に共感を寄せ、《根源的には〈書くこと〉はついに〈書かないこと〉によってしか遂行しえないが、その〈書かないこと〉自体の顕現として一篇の詩が生み出される、その点まさしく詩の、さらには文学の栄光と悲惨が存するといえる。私たちが山本陽子の詩によって啓示されるものも、そうした〈書かないこと〉にまで至りつく〈書くこと〉のアクチュアリティなのである》(「言語表現をこえて〈書くこと〉の暴力へ」『作品行為論を求めて』)と書いた。

 

 

 

 長くなりましたので、明日に続きます。

 

       ………………     ………………       ………………

 

 

 

 

 

 

 ぼくには、彼女の詩には精神の病の影響がみえると思えるのですが、たしかに心を抉るような表現だと思います。詩を書く彼女に、激しく共感します。

 

 人は、ある時には、重い負担になることを背負わねばなりません。自分の責任ではないのに………です。それでも運命と戦い続ける………

 その姿に、感動します。

 じっさいに会ったわけでも、よく知っているわけでもないのですが、彼女の壮絶だった人生を………祈りたいと思うのです。

 

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。