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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────詩的意味論 1

 おはようございます。

 

5章  詩的意味論の試みをまとめたいと思います。

 P138

………たしかに、詩作品は〈私(作者)〉が書いているのだが、しかし、〈私〉はこのもう一人の〈語り手〉の声を聞きながら、あるいは彼に手を掴まれるようにしながら書いているのである。前章において、わたしが言ってみたかったのは、以上のようなことである。

 この〈語り手〉は、〈私〉が仮構したものにほかならないが、〈私〉とは区別される。詩作品が、そのような〈語り手〉によって語られるものであるとすれば、それは詩の意味論にどのような視点を導き入れるのか、ということが今回のテーマである。すぐにこのことから思いつくことは、〈私(作者)〉と〈語り手〉との間に、意味のずれが生じるのではないか、ということである。

 と著者は、意味のずれが詩となって表現されると考えているようなのです。

 

 この章の最後の部分を引用してみます。

先にも、述べたように、詩における意味とは、何よりも意味のずれである。しかし、その意味のずれは、言語規範そのものの崩壊による〈意味の虐殺〉までゆきつかねばならなかった。しかし、わたしには、それは絶えざる折り返し点としてだけ意味があるように思われる。それに縁を接しながら、さまざまなレベルで、意味のずれ、違犯、そして、ナンセンスを運動させること、歴史的に出現してきたそれらを共時的に交錯させること、わたしが意味論として描いてみたかったのは、そんなことであるが、素描くらいはできたであろうか。(P。184)

  • 意味のずれは言語の文脈の崩壊にまで至らねばならなかった 
  • さまざまなレベルで意味のずれ、違犯、ナンセンスを運動させること

が、詩にみられると………

 

       ………………     ………………       ………………

 

 この章ではその〈意味のずれ〉をみるために、詩が引用されています。

(1 意味のずれ)

黒田三郎「なくす」】

酔っては

いろんなものをなくす

酔わなくてもなくす

手袋

ベレ

蝙蝠傘

ひどいときには

雪のなかに

長靴を

片っぽう

落としたことがある

         (一連)

 

 著者はいいます。

しか詩、作品「なくす」において、〈語り手〉は、〈私〉の手袋やベレや蝙蝠傘を《なくす》こと、それ自体を報告しようとしているのではない。………(略)

………具体的な事物の亡失ということがらを述べながら、それ以上の何かを《なくす》ことの暗示になっている。………(略)

………この世界における自分の位置、存在の喪失という、別の視えないもっと大きなものの象徴であることを、意味したがっている。この〈事実(体験)〉と象徴との意味のずれは、大きなずれではないために、意味がわからないという問題は発生しないが、そのずれがもっと拡大されたら、当然、そこに………(P141)

 

 〈私〉と〈語り手〉との相克は、意味のずれとして認識され、詩の表現のうえで文脈の混乱や違犯と破壊、ナンセンスとして表れる、と著者は考えているようです。

 それはこの章を読んだ後のぼくの感想なのですが、なぜ、そう思ったかといえば、この後にも引用される詩の、著者の分析、解説が、それに沿っているからです。

 

 P143~144において著者は、ソシュール三浦つとむ言語学に言及します。これらの言語規範は共通のものとしてあるのですが、言葉が発語される場においては、たえずこの規範からずれる方向にある………意味のずれが起こる、と著者はいいます。

 

(2 意味に違犯する関係)

吉岡実「挽歌」───静物より】

わたしが水死人であり

ひとつの個の

くずれてゆく時間の袋であるということを

今だれが確証するだろう

永い沈みの時

永い旅の末

太陽もなく

夕焼の雲もとばず

まちかどの恋びとのささやきも聴かない

               (一連)

 この詩の分析、解説はこうです。

………「わたしが水死人であり」ということばはその意味に還元できない。なぜなら、この詩作品の〈語り手〉は 、〈私(作者)〉の生存を、あくまで〈水死人〉の〈わたし〉のイメージとしてつかんでいるからである。わたしたちは、この意味あるいは意味不可能な関係を、直接にイメージとして表現することを、メタファー(隠喩)というレトリックで呼んでいる。〈私(作者)が水死人である〉ことは、意味としてはありえなくても、イメージされた〈わたし〉が〈水死人〉であるという擬事実は、メタファーというレトリックのレベルではいくらでも可能だということだろう。この作品は、メタファーのレベルで、すべてのことばが表出されている、と見てよい。(P148)

 

  この詩では、〈わたし〉は水死人のようなものだというメタファーで表されている。それは意味のずれが精一杯、わかる範囲に留まっているからだ、と著者はいうのです。

 

 著者は、

この意味のずれがずれではなく、違犯の関係まで先鋭化されると、意味規範との回路そのものが閉ざされる。

 と、いい、

入沢康夫「夜についての試論」────季節についての試論より】を引用します。

時間の鋸歯状の骨を踏みくだいて 夜に関する判断を 続けざまに桶に収める こうして 次の結論が生ずるであろう ベッドは夕映えの鏡に絶え間なく奪われ運び去られ 形のない犬たちは石膏の歯をしきりに噛みならし テーブルの下には 翼ある死がはてしなく憩い かえつて ゴム管に似た細長い夢の端だけが 高々とかかげられ あまつさえ 振り動かされているのだ

 

  著者の解説です。

………入沢のこの作品では、〈語り手〉は〈わたし〉のイメージで、ことばの関係を統覚するうな語り方をしていない。むしろ、〈語り手〉は、作品のどこにも中心がこないように、分散的イメージを配置する語り方をしているように思える。

 語の関係も、ところどころで故意に意味規範に違犯するように連結されている。鋸の歯の形をした時間とは、どのような時間なのであろう。夜に関する判断が桶に収められるとして、その夜とか桶とは何のことだろう。夕映えの鏡に運び去られるベッドとは、石膏の歯をもった犬たちとは、テーブルの下で休んでいる翼のある死とは、ゴム管のような細長い夢の端とは………つまり、〈語り手〉が語っている。それぞれの孤立的、分散的イメージは、どんな意味への翻訳も拒んで、しかも、鋭く冷たい光をはなちながら依存しあっている。むろん、これも喩法として理解するなら、隠喩と言っていいのだが、吉岡の「挽歌」のメタファーが〈意味←→イメージ〉の構造うもっていたのに対して、「夜についての試論」の方は、〈意味←→イメージ←→イメージ〉の構造をもっていると、あくまでとりあえずの比喩として言ってみることができる。つまり、前者はある程度、意味への翻訳は可能だが、後者は別のイメージに置き代えて理解するほかない、ということになろうか。

………〈語り手〉は、意味からそのように抽象化してこの作品のイメージに近づいたのではなく、はじめから意味規範にするどく違犯するイメージの表出という、隠喩的な方法を選んでいる、と考えるべきだろう。(P151)

 

 ぼくにとっては、この詩の言葉は、ムードとか気分が同質なイメージがたんに連想されて採用されている、ように見えます。精神分析で連想されるように………どこまで行っても、作者の世界を出ないように思えるのですが………

 言葉の意味規範に反しているのはわかりますが、著者がそこに過剰な価値を見出し、思い入れをしているように思えるのです。

 

 

 著者はこの(2 意味に違犯する関係)の節をこの言葉で締めくくっています。

「夜についての試論」という作品なは、一般的な意味の関係、あるいは意味規範に対して違犯するイメージの在り方自体に、逆に〈私〉の意味があらわになっている、と言えるだろう。

 

 

 

 長くなりましたので、この章は明日に続きます。

 

 著者は〈私〉と〈語り手〉という非常に魅力的なテーマを提出されていますが、それは、詩を書く主体を〈捉え返して〉描く、というメタ的な構造ということなのでしょうか?

 

 詩論というのは難しい。

 哲学といっしょで………ぼくにとっては、考えれば考えるほど迷路のようです。

 基本的に、詩論で詩を書いて、読んでくれる人を感動させられるか………ということのように思うのです。ぼくなら、そういう詩は、教科書でしか読みたくありません。尊重はしますが………自分の底辺の世界とは無縁なので。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。