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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────〈語り手〉とは

 おはようございます。

【4章  詩作品の〈語り手〉とは―詩・短歌・俳句における〈私〉】のまとめ

 

 詩作品における 〈語り手〉という存在を言い出したのは入沢康夫の『詩の構造についての覚え書』からである。

 この本の中では〈語り手〉は〈発話者〉と名付けられ、作者、発話者、主人公の区別がつけられる。

 

 著者はP111で、こう書いている。

この入沢康夫の詩的構造論や天沢退二郎の〈作品行為〉論をめぐって、わたしが異議をとなえる文章を書いてからも、相当な年月がたったことになる。それをわたしが『〈像〉の不安』という本にまとめたのは、1972年であったが、ここでまたこのテーマをむしかえそうというわけではない。ただ、詩における〈私〉のテーマをめぐって考えようとして、やはり、〈発話者〉から出発せざるをえない、というだけのことである。

 

 そして著者の〈語り手〉への考えとして………

 なぜ、〈作者〉は作品を語るもう一人の〈語り手〉を仮構してしまうのだろうか。その〈語り手〉に主権を委ねなければ〈作者〉はみずからの感じ方、考え方を他者のように表現することができないばかりか、他者のそれをも自分の経験したように表現できない。〈作者〉はいちども人を殺したこともないし、犯したこともないのに、彼が仮構した〈語り手〉は殺人者や強姦者以上に、彼らの動機や心理や行動をリアルに語ることができる。〈語り手〉は、自由に男にも女にも中性にも性転換できるし、どんな人にもものにも植物にも魔物にも変貌しうるし、なんべんでも生きたり、死んだり、いかなる時空にも移動できる。〈語り手〉とは、非実体的な、視えない、空虚な〈作者〉である。それは〈作者〉によって仮構され、規定されているという点で不自由を背負わされているが、しかし、〈作者〉の現実的な属性を否定し、非現実的な未知な〈語り手〉たろうとしている点で、自由な可能性を生きている。(P112)

と、解説しています。

 そして、それぞれの形式の作品には、それぞれの語り手がいるといいます。

 物語の語り手、詩の語り手、俳句の語り手、短歌の………

 

【俳句の場合】

流れゆく大根の葉の早さかな  (虚子)

 をテキストに取り上げて考察しています。そして、この平凡な事実を平凡に詠んだようにみえる俳句について………

P116

………そのことは俳句には作者がいるだけで、〈作者〉から分離されるような〈語り手〉はいないのではないか、という疑問につながる。読者から言えば、俳句という作品の背後に、一人の実作者の眼とか、感慨や心境を読みとればいい、ということになるだろう。しかし、そうだろうか。

という問いかけから、これは〈ありのままの客観の写生〉というのではない、というのです。

〈語り手〉は、そのような〈作者〉の写生の意識に逆らって、極度にことばを選択し、省略せざるをえない。ほかに何が流れていようとも、大根の葉だけがクローズ・アップされる。………(略)

 ………つまり、写生ではなく、クローズ・アップのようなことばの選択力の強さによって、これらの書かれていない世界を、読者に想像させるのである。(P117)

 

 P120~122にかけて、戦後、桑原武夫が唱えた〈俳句は第二芸術〉 だ、という論争についてもその内容を解説しています。桑原武夫は芸術において〈作者の主体の優劣〉という基準から考えていたのだと………

 

【短歌の場合】

 著者は、短歌は〈私〉の主観が表白されることが多いと述べています。

 しかて、岡井隆の『現代短歌入門』の文章を引用して、

たとえ一首のうちに模写に似た描写があるにしてもそれは模写リアリズムなどといった大それた理念に動かされた結果でなく、あくまで作者の感情表白にとって必要かつ有効だという限度内でのささやかな描写であり、もとより描写としての不完全さはまぬがれえない。そもそも描写が目的ではないからです。その描写の特長は、没細部的であり単純・端的であり、暗示的であり象徴性に富むところにある。………(P126)

 ここでも隠れた〈語り手〉の存在を指摘しています。

 

【現在詩の場合】

 著者の主張が入っている文なので、長い引用をします。

現代詩はどうだろうか。現代詩の〈語り手〉は、〈私〉に関してまったく恣意的であるとしか言いようがない。つまり、〈私〉を対象にはしないが、しかし、それを予想せしめる俳句的な〈語り手〉もいれば、〈私〉をさまざまに演出しながら、〈私〉の表現をめざす短歌的な〈語り手〉もいる。そして、決して正体を明かさない複数の〈私〉を出現させながら、ひたすら〈私〉を拡散させる〈語り手〉もいれば、〈作者〉という〈私〉の体験や感情を表現の対象にはしない、いわば〈私〉を消滅させるという形でだけ〈私〉を表現する〈語り手〉もいるだろう。現代詩の〈語り手〉が、〈私〉に関して恣意的であるというのは、これらの語り手のどれを優位におくかという公準が、どこにもないように思われるからである。(P129)

 ここで分析されていることは〈私〉と〈語り手〉の複雑な関係である。

 そしてそれの例証として、いろんな詩人の詩を部分的に引用して並べているので、よくわかるのです。

 詩には、作者の存在が目立つものと、影になっているものがあります。

〈作者の主体性=私〉が詩において、どこまで打ち出されているかが、引用された詩を比べることでよくわかるのです。

 

鮎川信夫「繋船ホテルの朝の歌」

おれには掘割のそばに立っている人影が

胸をえぐられ

永遠に吠えることのない狼に見えてくる

 黒田三郎「死のなかに」

その

ひとりである僕は

東京の町に生きていて

電車のつり皮にぶら下がっている

 田村隆一「言葉のない世界」

言葉のない世界は球体だ

おれは垂直的人間

 飯島耕一「他人の空」

空は石を食ったように頭をかかえている。

物思いにふけっている。

 谷川俊太郎「やんま」

やんまにがした

ぐんまのやんま

さんまをやいて

あんまとたべた

 中江俊夫「語彙集二十三章」

熊わらび

みどり姫わらび

しのぶ

強姦たちしのぶ

こけしのぶ

 吉岡実「僧侶」

四人の僧侶

庭園をそぞろ歩き

ときに黒い布を巻きあげる

棒の形

憎しみもなしに

若い女を叩く

こうもりが叫ぶまで

一人は食事をつくる

一人は罪人を探しにゆく

一人は自涜

一人は女に殺される

 

 

 4章を要約しました。

 やはりいちばんおもしろかったのは現代詩の〈私〉と〈語り手〉の関係です。これを意識することで、描く対象と、自分の主体性との繋がりを客観的に見ることができるかも知れません。

 

       ………………     ………………       ………………

 

 ところで、こういう詩論や概論が書かれている本を読むことに疲れました。いえ、理論は大事なんですが、そればっかり考えていても、じっさいに詩を書くためにならないような気がするのです。頭で考えたことで、詩ができるのではないですから。あくまで、「詩のことを考える」のは入り口のような気がするのです。

 

 この本は最後まで読ませていただきますが、これからは、読んで「これはいい表現だな」と思った詩句を取り上げていきたいと思います。

 著作権があるので、全体を取り上げることはできないので、どういう詩か………とういうことが伝えられないことがあるでしょうが………部分だけでも引用させてもらって、「ここに感動した」「この表現がいいと思った」みたいな、素朴なことを書くブログにしたいと思います。

 

 もちろん詩の入門書も読んで、詩を書くときのヒントになるようなことも載せていきたいと思います。よろしくお願いします。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 では、また18日に。