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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『詩的レトリック入門』を読む────余白とはなにか

 おはようございます。

 

2章 余白論の試み】のまとめ

 

 P34

詩の出現とは、必ず(と言っていいほど)余白の出現である。

とあります。

 どのように余白は生まれているか。

  • 行替え
  • 行間をあけることによって

         ………………     ………………       ………………

 

 非常に基本的な疑問です。それでリンクしておきます。

 

 下のリンクは、昭和4年に「詩と詩論」に載った北川冬彦の詩論、への感想が書かれたサイトです。

       『行分け詩と散文詩の間に

 

 このサイトでも、改行について考察しておられます。

詩文楽 - Shibunraku: 日本語の詩は何故改行するのか、できるのか?

 

文学のひろば 隔月刊第3巻・第6号

 平出隆さんのこのエッセイも素晴らしい。

 

       ………………     ………………       ………………

P35

黒田三郎『現代詩入門』によると、かって句読点で切るとか、意味が次の行にまたがらないようにするとか、呼吸が切れたところで行をかえるとか、いろいろな論議がなされたらしいが、自由詩形では、ほとんど合理的な根拠がない。

 P36

余白をもたない散文詩は、これまでも書かれているだろうし、今後、増えるかも知れない。

 と、著者は述べ、かって、行替えの規則性を持った定型詩の分析に移るのです。

 

 七五調の韻律としてあった定型詩は、余白のリズムが前提になって、次の行への転換をしていく形式だったといえるのです。

 ここでは島崎藤村の『若菜集』から「草枕」をテキストに選んでいます。

夕波くらく啼く千鳥

われは千鳥にあらねども

心の羽をうちふりて

さみしきかたに飛べるかな(P37)

 

 ………第一行目は千鳥の啼く風景の提示、二行目は、〈われ〉が千鳥ではないという主観の表白、三行目はそれを別次元でもう一度否定して、こころが千鳥になるという飛躍、四行目は一行目の景物としての千鳥とこころの千鳥とを溶け合わせている。

 つまり、行かえは、物語の展開をになっているのではなく、客観、主観、主観の客観化といった千鳥をめぐる観点の移動を可能にしているのだ。従ってここで余白をつくっているのは、一行を七五音で切断するための詩語の選択だけではない。一行目から二行目へと作者の観点が移動する、その移動がひそませている隙間も余白をつくっている。千鳥が啼いている風景と、自分が千鳥ではないという主観との間、その主観にもかかわらず、こころが千鳥となって羽をうちふるわせるという主観の客観化との間には、行かえ(余白)でしか整調できない隙間がある、と言ってもいい。更に、この「草枕」は、四行一連ずつがそれぞれ独立した中心(あるいは観点)をもっている。たとえば第一連の中心は千鳥の像だが、第二連になると、語り手の内面そのものに観点が向けられ、鬱屈した青春の感傷(なげき)が中心をつくっている。その一つの中心(観点)から、別の中心への移動が、一行あきとしての余白を必要としているのだ。あるいは、一行分の余白という、意味をはらんだ無言の表現を媒介にして、作者の観点から観点への移動が可能になっており、それが創世期新体詩のもつ物語性を破棄せしめたのである。(P40)

という精緻な分析、解説をされています。

 ほとんどここで余白の機能は言い尽くされていると思います。

 P41からは、その時代の象徴詩などが分析されていて、そこでの形式の変化による余白の使われ方などが述べられます。

 

ところで余白は詩型によって、拡大したり縮小したりする。戯れに詩型よる余白の量に順位をつけてみると、いちばん多く取るのが俳句であり、ついで短歌、定型詩新体詩象徴詩)、口語自由詩(行わけの詩)、散文詩………ということになるだろう。(P46)

 

 

 

 また、P50~は俳句の〈切れ字〉によって起こる余白について考察されています。 取り上げられている作者は、蕪村です。

 短歌では石川啄木

 現代では俵万智岡井隆。ここで吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』での〈短歌的喩〉を批判的に紹介しています。吉本隆明はそれを〈像〉と捉えたが、著者は隠喩的なイメージとしたほうがいいと思うと………

 

 そしてP70からは口語自由詩の余白を考察されています。

  • 萩原朔太郎は当時の音数律に代わって、音韻律の定形的なリズムを求めていた。
  • 「新散文詩運動」を唱導していた北川冬彦の詩論を引用して紹介しています。

 

 そして最後に「散文詩に対しては、たしかに行かえの意識は失われたとしても、余白までなくなったのか、と逆に問われねばならぬだろう」と書かれています。

 

       ………………     ………………       ………………

 

 言葉によって作られている作品は、言葉にされていない余白になにを読み取るかが大事なのだな、と思ったのです。

 

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 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。