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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

自然体で、自由に

 おはようございます。

 ずっと鈴木志郎康さんの詩を読んで来たのですが、今日でいちおう最後にします。

 ひとりの詩人をずっと読むことで、詩の作り方の大まかなところがわかったような気がします。

 自由に描いてもいいのです。

 自分の思っていることを伝えられるように………

 昨日、鈴木志郎康さんの言葉を引用させていただいたように、

「言葉は誰もがそれなりに使える能力を持っている。その能力を使うことで生きる自由を得られる。詩とはそういうものだと思うようになった。一層多くの人が詩を書くようになればいいと思う。」

 

 言葉をつかうことに上手下手はあっても………伝えたい心や気持が大事、ですよね。それが言葉の役割ですから。相手を攻撃したり、責めたりする言葉は、自分をも傷つけます。

 詩の世界は、誰にでも開かれているんだと思うのです。

 

       ………………     ………………       ………………

 

『ペチャブル詩人』(2013年)を読んで感じることですが、鈴木志郎康さんはほんとうに自然体で、自由に、言葉を使っていると思います。

 構えたり、褒められたりしようなんて思わないから、言葉で遊べるというか………自由です。呟く言葉が詩になるという次元におられると思います。人生の経験で裏打ちされているから、言葉がストレートに相手の胸に響いてくるんじゃないかと思うのです。自然体です。

 

   「位置として、やわらかな風」(最初部分)


今、というこの時、わたしは、
姿勢として、
腰掛けている。
地下鉄の車内。
太ももにグリーンのバッグを載せて、
両膝の間に杖を立てている。
位置として、
宮城前の地下を通過したところを移動中。
表情は、
無表情。
容貌として、
短く切った白髮に度の強い近視のメガネを掛けて、
細い目。

 ………

 で、始まるこの詩にはドラマがあります。普段は意識しない〈位置〉のドラマです。電車に乗っている自分は運ばれている。同じく他者も運ばれている。同じ箱に乗って………そこに人生を感じさせるのです………作者はそんな観念的なことはいっていませんが、そう感じさせる。

 

前の座席の若い女を見ている。
女の胸元の、小さな宝石の飾りに視線を止める。
白いブラウスの襟が僅かに開いて、

………

  女の人を見てしまう、そういうことはよくあることです。

特殊意識として、
わたしは、
その女性とわたし自身の身体が入れ替わる空想を始める。
彼女の姿勢を真似る。

………

 

 自分と他者が同化するんです。これが詩だろう、と思えるぐらい自然です。そしてなんでもないこと。

今、湯島駅に着いた。
その女性のわたしはホームにさっと降りて、
階段を上って行くが、
改札が未知。
フ、フ、
フ、フ、フ。

………

 女の人は降りて行くのですが、わたしの想像はまだ続きます。このあと老人の身体になってしまった女の人は、どんなに驚くだろうという空想をします。

ナッチマッタンダ、
ナッチマッタンダ。
脳内の位置として、
やわらかな風。
ナッチマッタンダ。
現実の位置として、
わたしは、
地下鉄千代田線の千駄木駅に向かって

……… 

  あと3行で、詩は終わります。〈位置〉としての詩は終わりです。でも他者との同化は続いていく余韻を残します。

 なにも描いてないんだけれど、いい詩ですねえ。すごい! と思いました。

 

 詩を無理に作っていない。

 自然にできる。

 そういうふうになりたいな、と思います。(演技的なプアプア詩も好きなのですが)

 

 

 もうひとつ、詩を。やはり「蒟蒻のペチャブルル」ですよね。

 

コンニャク
わたしの手から滑って、
台所のリノリュームの床に落ちた、
蒟蒻のペチャブルル。
瞬間のごくごく小さな衝撃と振動。
ペチャブルル。
夕方のペチャブルル。
わたしが手を滑らせた、
スルリと落下、
手加減が狂って、
75センチ下の床に
コンニャクが落ちた。
ただそれだけのこと。

 

これからがこの詩を書いたこの詩人の問題。
十月十二日の夕方は、ご飯を炊き、カボチャとコンニャクとシイタケを煮て、豆腐とワカメの味噌汁を作る。テレビで「笑点」の大喜利を見たら、(後略)。

 

それからひと月余り経って、
今夜、晩秋の雨の夜、

………

  窓の外を見て、考えている詩人がいます。自分のこと、を。

 

滴を落とした葉が震えるのを見る。
コンニャクが手元から落ちて震えた。
それが、言葉を思い立って、
この十日余りの筋肉のストーリー。
老朽が始まっているんですよ。
蒟蒻のペチャブルルのストーリー、
ペチャブルルのストーリー、
極極の瞬間の小さな衝撃と振動、
ペチャブルル。
葉を揺らす雨滴はスヌヌッーと無音の
極極の瞬間の小さな衝撃と振動。
光が震える。

        (ここで3連の終わり。)

 蒟蒻と、光る葉と、ペチャブルというドラマ。融け合っています。

 

実は、生きてるって、加減につぐ加減だよね。
加減が衝突を和らげる。
加減が振動を吸収する。
筋肉の集合体を支配する反射神経の反射速度が、
愛撫の優しさを生むってことさ。
加減がうまくできなかったなあ、
欲望の主体者として、
いつも力の入れ過ぎだった。
わたしこと、一個の詩人の人生。
いつもの力の入れ過ぎさ。
そして、加減の衰退。
カボチャと煮た蒟蒻を食べれば、
箸触り、サクプリョン
歯触り、コリョロロン
なるほど、
それが、一個の詩人さんの結論ね。 

  6連目の、終連をすべて引用してしまいました。ここでの思考は、

箸触り、サクプリョン
歯触り、コリョロロン

 という音楽と変わりないように思えます。平等のように扱われている。じっさい、そうなのです。

 

 まったく自由で、楽しそうで、ほんとうに〈現実〉を超えた世界が描かれていると思うのです。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 鈴木志郎康さんの詩を、長い間、読んできました。

 つき合っていただいて、ありがとうございました。

 月曜日は、伊藤比呂美さんの物語詩の本を借りてきていますので、それを読みます。また、よろしくお願いします。