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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

言葉を使う人=詩人

 おはようございます。

 自分がどういう人間なのか、を掴み、確認することが大事だと思います。生きる展望とか、希望も、自分が何を望むのかを知らないと、指針になりえないと思います。

 

 昔から、「生とはなにか」「死とはなにか」が哲学的命題といわれています。

 

 詩をよむことで「こんな感じ方があるんだ」とか「こういう場合があるんだ」と体験することが出来ます。それで、短い時間に読めて、深く印象に残る詩は大切なものと思えます。

 

        ………………     ………………       ………………

 

 自分を捉え直しているのではないかと思えるところを、鈴木志郎康の2冊の詩集から見てみたい………と考えながら探したのですが、そううまく引用できませんでした。

 たぶん、当然なのだと思うのです。

 詩人にとっては、現実の変容を描くことが=自己を捉え直すことなんでしょうから。すべては描写のなかに含まれています。

 詩はどう読んでも自由だと思うのですが………答えを探すためのものではないような気がします。

 

       ………………     ………………       ………………

 

 それで詩集「声の生地」(2008年)を読むことにします。ここでは、自己を捉えるということが描かれているように思うからです。

 

    「光の中の人」(最初部分)


詩は言葉で書かれているけど、言葉ではない、
と言い放つと、
光の中に立つ人が見えてくる。
新芽の香る林の中、
木漏れ日の縞目の中に、
その人は、
たくさんの言葉が詰まった頭をのせて立っている。
虹色に髪の毛を染めた人。

……… 

  この詩は短いのです。これで前半分です。

 

林のなかで光っている人。
じっと見ていると、身体を震わせている。
止まっているのに踊っている。 

 で、終わる17行の詩です。

 描かれているのは〈光の中の人〉ですが、自分と融合しているのかもしれません。なにか、癒やされる快さみたいなものを感じます。

 

 

「極私的ラディカリズム」という詩もおもしろい。

70年、生きてきちゃった。
もうあと10年、そこがいいとこかな。

で、極私的ラディカリズム
ってことを考えた。狭さに徹すること。

わたしという存在の根元は、子宮から引き出されて、
身体にあるっていうことですね。

わたしが自分の身体と付き合っている間は、
わたしでいられる。

毎日、体操もしてますけど、
肝心なのは、やはり言葉だ。
身体のカオスから出てくる言葉。
言葉で時間を刻む。単語の数が生きている時間だ。
言葉を使うってこと、善し悪しは考えない。
言うってことを続ける。または書くことを続ける。
小さなことを言う。また小さなことを書く。 

               (最初部分)

 

 言葉と自分との関係を正直に書いています。もうこの詩集の頃になると、口語体になって、独り言に近くなっています。つまり他人と自己とは隔絶していることは確かなんだけれど、隔たりは曖昧でもある………と思うのです。

 

焦げ鍋の底を洗う。
がりがりと洗う。

がりがりの、
極私的ラディカリズム。

手元、がりがりの、
極私的ラディカリズム。 

という終わり方をしているのは、

 最近はカボチャを煮てます。
牛蒡と一緒に。

ということがあるからなんです。それで失敗して鍋を焦がすことがある………そういうことから………「がりがりの、極私的ラディカリズム。」という表現になることが面白いです。

 

 

「詩について」という詩の最初の部分。

 

キーを打つ。
詩について、詩に書いてしまおう。
どっと来る。
思い。
タッタッタッ、た
ビューングッテンガ
思い以上のある種の込み上げ。
わたしは
詩人。
職業と言えない詩人という呼称。
わたしの誇りだ。
お金で生活する社会なのに、
詩を書くことは金銭を稼ぐことにならない。
わたしが書く詩は、
売り買いの価値とは無縁だ。

 ああ、いいなあ、と思いますね。詩を書く行為と、詩を考えることが、つながっている、そのままだ………

 

 それは、

受け止めてくれる人がいる。
無駄でないと思える。
自由がある。
自由に言葉をつかうという、
その自由の限界を超える。
言葉が生まれる瞬間ということ、
見えないけど、
それはある。
あるんですよ。           (部分)

という認識を経て………

 

生きる自由だ、
詩は。
他人から遠く、
密かに、
元手も掛けずに、
言葉を社会から奪って、
世界を名付ける
声、
突き動かす
声、
願望が
時間を濃縮する、
瞬間の自由だ、
詩は。
まあ、そう気張らないで、
個の地平に
立て。
この原則を
守れ。
ビュン、ビビューン
ビュン、ビビューン
ラ、ラ、ラ 

 と、終わるんです。この歌のような言葉の伸びやかさ、それが素敵です。

 そして〈あとがきから〉と題してこんなことを書いておられます。

「………皆自分の言葉で生きる自由を求めて、それなりに実行していたのだと受け止めることが出来る。身体には能力ということがつきまとうが、言葉は誰もがそれなりに使える能力を持っている。その能力を使うことで生きる自由を得られる。詩とはそういうものだと思うようになった。一層多くの人が詩を書くようになればいいと思う。わたしもその一人として詩を書き続けたい。」 

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。

 明日で鈴木志郎康さんを読むのは終わります。