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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

詩人の体験するもの

 おはようございます。

 鈴木志郎康さんの詩を書くスタイルは、変化してきたんだな、と思っています。

  • 現代詩文庫22の作品論・詩人論のところで、飯島耕一が「鈴木志郎康と『それから』の代助」というエッセイで指摘したように、初期の頃の〈受動態〉
  • プアプア詩にみる、日常性の破壊と妄想の爆発による〈現実の撹乱〉
  • 詩集「やわらかい闇の夢」における、家族や自分を描く〈自己を見つめる視線〉

 そして、「石の風」で再び、日常の捉え直し、というか………生活の破れたところを見る視点の構築、していると思うんです。ここでの妄想や幻想は、プアプア詩のような暴力的に意志的に起こされたものでなく、日常に囚えられた私が体験するものとしてあるような気がするのです。

 そのことを考え続けてきたのですが、そんな難しいことを考えても………自分の手に余ってしまいました。論理的に詩を分析するとか批評するには、あまりにも知識不足で無理なのだとわかりました。………でも、直感的にそういう感じがするのです。

 

 実は、こういう展開、構成で説明できると思っていたのです。

   ● 日常における自我の拡大(モチーフが周辺へ拡大している)

      ↓

  ● 日常性に潜む妄想やドラマ(意識的に気づく)

      ↓
  ● 自我の再定義(囚えられた自己を発見して)

 それぞれにテクストとしての詩を部分的に引用して、論理を展開できると思っていたのです。でも、うまく組み立てられませんでした。頭の中で抽象的に考えただけで具体的でないからだと思います。

 また、そのことが具体的に見えるようになったら、説明させて下さい。いまは、筋書きだけです。すみません。

 

        ………………     ………………       ………………

 

 鈴木志郎康さんはいまでも発言を続けられています。

 

       ………………     ………………       ………………、

 

 鈴木志郎康詩集「石の風」から、タイトルにもなっている、「石の風」を読みます。

 

詩の言語を求めて、

歩く。
新百合ヶ丘」で
その「ゆり」に惹かれて、
あてずっぽうに下車した。
人々が私有して住む
家々の間を抜けて、
春の白い風が吹く中を、歩く。
窓を閉ざした家々には他人が住む。
家の中に見えない人たちは他人。
目線の遠くに犬を連れて散歩する人は他人。
夢を実現した家の飾りドアの中に消える人は他人。
彼らからすると、路上のわたしは他人。
誰の記憶にも留まることなく通り過ぎるわたしは他人。

 この最初の部分では、彷徨う自我が描かれている、と思います。「他人」という言葉でしか確かめられない関係性。

 

 そして、家々を見ながら「アメリカ風だな」とか「ヨーロッパ風」と思うのですが………それは詩集=自分の言葉に対する感想とも重なっているのです。(ダブルイメージです)

 そして自分が死んだことを想像して………人々の記憶から消えるだろうと………

 

わたしはただ、人々が自分の趣向を満足させて住みながら、(37行目)
わたしには何の関係もない家々
の前とか、後ろとか、横とか
を通りすがりながら、
ここに歩いている自分の肉体が、
家々とも詩集とも関係を持ち得ない、
その関係が、無い、ということを
楽しんでいるのだ。
わたしは、肉体として、自分の「他人」を楽しむ。

として、自分のなかにある他人を意識しているのです。

 そして公園のベンチで寝てしまうのですが………目が覚めたとき幻想を見ます。

 

丸太と板で土留めした水辺の洗い場に、(82行目)
細紐のたすきを掛けた
紺の着物の若い女がしゃがんで黒くすすけた飯炊き釜を洗っている。
赤い肌着が見える。
草履の鼻緒に食い込む素足は赤い。
白い飯粒が流れに乗って水底に小さく踊りながら降りていく。
わたしの幼い記憶にもない古い眺めだ。 

  それは記憶にもない深い深層の夢のようです。

 わたしは、幼い彼女の身体に欲望をわずかに掻き立てながら、(92行目)
自意識を持たない少女の一途に思う心を、
両親を畏れ、他人を畏れ、
言葉に騙されやすい、無垢な心を得ようとしている。
少女の、塗り下駄を楽しみ生きている小さな心を、
老いた自分の心に重ねようとしている。
その心に肉体の快楽を忍び込ませようと、
思い描こうとして、止めた。
関係がない。

 

 

 ここでは幻想をも断ち切る〈わたしの自我〉が描かれています。夢を見ていて「これは夢だ」とわかっている………そんなふうな在り方。あやういようです。

 

家とて痕跡になるまい。(109行目)

詩集とて痕跡になるまい。

 

と結論づけた作者は、

わたしという関係を断ち切った「他人」が、(120行目)
1つの意識として、
点滅している。

で、終わります。

 

 この詩では〈わたしという「他人」〉という表現が出てきます。自分と他人との境界線を超えるものは………あるいは、自分と他人を分けるものは………と、読者の想像が拡がります。あえて〈わたしという「他人」〉という硬質の言葉を使っているのは、読者に考えてほしいからだと思うのです。テーマを素直に出している。

 等身大の詩人が、現実には通りを歩き、幻想を見るだけのことを描いているに過ぎませんが、これは思考の旅です。

 

 詩人が、〈わたしという「他人」〉という言葉を使って、自分というものを定義し直していると思うのです。それを包み隠さず言葉にしていると思います。 

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 うまく書けませんでしたが………

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。