読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

対象の内部に入る 体現する

 おはようございます。

 詩集「やわらかい闇の夢」の詩は、どれも内省的です。静かに呟くような詩たちです。

 

 「続・鈴木志郎康詩集」(現代詩文庫121 思潮社)の詩人論・作品論で、富岡多恵子は「新しい詩人」というエッセイでこういっています。

 プアプア詩について、

おそらく詩人本人の意に反して、コトバのスタイル(つまり攻勢のスタイル)はつくってしまったが、彼自身の、主体的な観念はつかまえられないところがあった。 

………(略)

そのスタイルが、外部におもしろがられたりもした。つまり、

詩人本人の意に反して、カタチの変革が、詩の内部でファッションになり、観念の変革を押しとどめた。(P146上)

  そして、鈴木志郎康が〈極私的〉という言葉を使い散文を書くことを経て、〈地を這うことを覚えて………みじかい、昔よりもカタチにはまった詩を書いた〉と書いています。

大げさにいうなら、芸術が、文明によって変革させられた点があるとすれば、まさに極私的なもの(たとえば手というもの)が手段の上で公共的なものでつぶされたことである。活字、ゼロックス、ビデオ・カセット、その他を考えてもわかる。だから、芸術を、極私的なものの表現であるという観点に立てば、現代芸術は貧困の芸術といわれても仕方がない。イタリアの批評家で現代の観念芸術といわれる造形作品を、そのものずばり、アルテ・ポヴェラ(貧しい芸術)といっているひともいる。(P148上)

 と、いい、

〈やわらかい闇の夢〉のコトバは、コトバのアルテ・ポヴェラであるかもしれない。わたしには、〈やわらかい闇の夢〉の方が、プアプア詩よりはるかに観念的に思われる。プアプアが古い前衛詩ならば、〈やわらかい闇の夢〉は、一種のアルテ・ポヴェラである。近代詩以後つくられたパターンとはちがうものである。それがなぜ、観念より遠くはなれていくという風な、逆もどりに誤解されるようなコトバを詩人が吐いたかといえば、詩人が観念をこなごなにするために近寄るのでなく、詩人が極私的な観念の内部へ入ったからなのである。それは日常の内部のスミズミにつまなく入るということである。(P148下)

という詳しい分析をされています。

 

  また、「ノート・鈴木志郎康」で清水哲男は、

この鈴木氏の転身は、単に〈わけのわからないこと〉から〈わけのわかること〉へのそれではないのであって……… 

 と指摘し、

ここで鈴木志郎康という詩人は、狂気とナンセンスにみずからの身体的部分をゆだねて闇を開こうとするかわりに、狂気とナンセンスを体現していくひとりの人間をスケッチしてみせることで、さらに深い闇の存在を予感させる方法を編み出したのだとはいえないだろうか。………

………(略)

作品そのものが闇のありどころを激しく問いかける〈質問〉であったほうがよい。そう、詩人は考えたのだと、私にはそんな気がするのである。(P159下)

 

  このふたりの引用で、すべて言い尽くされていると思います。

 

        ………………     ………………       ………………

 

    「母国語」

人間が喋っているのが聞える

人間が喋っているのが聞える

私は一人り居の部屋の深夜に立ち上って

闇に開かれた

黒い窓に駆け寄って行くのです

おお、母国語が話されているのだ

人間が喋っているのが聞える

私は深夜の自室で

立ち上って

黒い窓に走り寄り

耳を澄ますのです

おお、日本語だ

私は理解出来ない

人間が喋っているのが聞える

人間が喋っているのが聞える

………

          ────(最初の部分)──── 

 

「人間が喋っているのが聞える」のリフレインがせつなく、また心地良いのです。

 最後は、

私の耳の底に

静かに眠っている母国語は

私は抱き寄せたい

あなたの肉体なのか

 で、終わります。

 

 ひとつのことに集中しています。描かれる対象と、自己が重なる。すでに、描かれるものが自己の体験としてある。

 

 もう少し、続いて読んでいきたいと思います。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 また、明日。