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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

映画的詩法

 おはようございます。

 詩集「やわらかい闇の夢」の詩を読むといったのですが………その前に、まとめとしてプアプア詩的な詩を描く方法をまとめておきたいと思います。

 

 プアプア詩については、映画のように作られた、と思っているのです。その後の1971年の詩集「家庭教訓劇怨恨猥雑篇」も、75年の「完全無欠新聞とうふ屋版」も同じスタイルで作られていると思います。

 

 たしかに〈劇〉の要素が増しています。観客に向かって言葉が発せられている。これはもうすでに〈語り〉の世界です。そこで言葉のリアリティを保証するものは〈現実〉ではなく、どれだけ、語る身振りにリアリティがあるのか、だと思うのです。描く対象はどうでもいいのです………というのは言いすぎでしょうか。作者が言いたいことを伝えるために都合がいいのでモチーフとして選ばれただけだと思うのです。語るという行為や身振り、スタイルが〈詩〉になってしまっている。

 

 でも、劇や浪曲を聞いているようで、おもしろいです。なにしろ饒舌なので、そのリズムに身を任せていると、見せてもらえる映像によって、違う世界を体験できます。

 

「完全無欠新聞とうふ屋版」の「美貌充満の世紀」は、ほとんどアジテーターの言葉遣いです。

 

     ………………       ………………       ………………

 

 ぼくはプアプア詩にこだわってきました。自由で、破壊的で、解放的な………

 なぜかというと、こういう詩を書くことができるようになりたかったのです。

 

 詩は自由に書いてもいいのだ、とわかったので………こういうことを書こうというテーマが決まったなら、

  • 妄想を映画的に描く。
  • 映像的に連想していく。

という方法で詩が書けるのだと思ったのです。

 

 いえ、これは詩法が数あるなかで、ひとつのヒントにしか過ぎません。

 また、こう考えることは、詩を書くことを矮小化している、作品に対しても失礼だと避難されても弁解の言葉も無いのですが………

 自分の知識や知恵の範囲で、迷いながら詩作法を探っていきたいと思っています。

 

       ………………     ………………       ………………

 

 同じく「完全無欠新聞とうふ屋版」の最後に「水死体」という静かな声で語った詩があります。

 

 運河の河べりに水死体があがった

黒いのは廃油のためだ

衣服を着たままの黒く光る水死体

水死体は黒く光っていた

子供らは見ていた

私は見ていた

私の体内には赤い血が流れていた

水死体の体内には黒い水があった

私は見ていた

生命の終結の姿の黒光りを見ていた

他人なのだ

その孤独な終結を子供が見ていた

私は水死体を思い出す

私は抱いて寝た女の胴体を思い出す

女の生暖かい唇を思い出す

水死体は廃油にぬれた着衣を脱ぐことはなかった

女の胴体は運河の水面のように揺れていた

他人なのだ

いま私は女を失った

いま私は水死体を失った

………

          ────(前半部分)────

 

 非常に映像的で、妄想的でもあります。現実感はあるのに言葉がほんとうなのかわからない。

 ひとつの絵のような映像からでも、イメージは広がる。その見本のような詩だと思いました。

 

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 読んでいただいて、ありがとうございました。

 明日は「やわらかい闇の夢」の詩を読みます。