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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

映像のメタファー

 おはようございます。

 鈴木志郎康がプアプアという処女を発見したのは事件だったのだと思うのです。

 

 これで現代詩が変わった。言葉が〈意味の縛り〉から自由になってもいいんだ、という共通の了解ができたのです。

 それ以降、言葉の過激な使い方が始まったのです。

 自分の意識の中身を勝手なメタファーを使って、表出することが詩だ、という誤解も始まったように思います。

 傍から見ていると、現代詩が難解になった。

 価値ある難解なら読みたいけれど、自分(読者)に関係のない難解なら読みたいと思わない、それは当然のことだと思います。

「あなたの人格や、意識の中身や、生き方とか自尊心に興味がないよ」ということは、読者にはいえないので、読まないことになってしまう………

 

 60年代に鈴木志郎康さんを始めとする先鋭的な詩人たちが始めた〈言葉への態度の変革〉は、難解だからこそ意味があるというような倒錯を招いたのですが、じっさいの目的はそうではなかったし、意味の重さからの解放を果たすことで、言葉を自由に扱う地平を手に入れたと思うのです。

 

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「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」については、すでに、

[流体枷仔] 鈴木志郎康『罐製同棲又は陥穽への逃走』「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」小考 さんが、すばらしい分析と考察をされているので、読んで下さい。

 

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 昨日、鈴木志郎康の詩は映像的だ、といいました。

 それをプアプア詩をテキストに見てみたいと思います。「法外に無茶に興奮している処女プアプア」を読みます。

 

夢に舌刺されて

法外な目覚め

しかし今日は楽しく出勤して

一日一善で二日で二善と気がふれる

正直いうと

横川駅前では広場を渡るとき信号の短さがいつも気にかかります

青に渡り始めて赤になるバスが行ってしまう

これは余りにも法外ではないか

こんなことではたちまちプアプア自身が欲望を漲らせた男根であった

硬い高い壁を歩いてくる男根的少女虹する

夏の朝

一滴の水が彼女の乳頭から腹部を流れてクリトリスに達したとき

東雲分校行きが来て私は乗ります十円玉二枚コトリコトリ指を離れる(註1)

………

           (最初-部分)

  べつにわかりにくい詩行ではありません。

 具体的には、出勤するのでバスに乗る描写です。 ただ、「法外な目覚め」であり、「一日一善」と思いながらバス乗り場に行くと、青に渡り始めて赤になる、バスが行ってしまう

 こんな法外が許されるのか………と日常生活の矛盾への不満が露わにされます。

 そしてプアプアが男根として登場します。

 これが映像的です。

 信号が変わるのも映像的なら男根も映像的です。

 

 プアプアは自分で愛撫するのですが、

今や法悦の少女は手を開き、股を開き、魂を開き、全世界の自然を呼吸する

と描写されるように、空想されることが映像として定着しています。

 

 意識の中で自分自身を求めることがプアプアに変身していることなのですが、そのプアプアは「私はもう今朝からすっかり男根なの………」云々と喋ったり、

あなたはカレーライスを食べる法外な興奮せる岩石だったのか(36行目)

あなたはむき出しの二脚で階段を下りる法外な興奮せる鉄塊だったのか

ざまあみろ、今やプアプアの姿をした男根は御婦人用のトイレを使った、血染めの衛生脱脂綿とふるさとを蹴とばせ

みやがれ、今プアプア男根はハイヒールをはいて、奥様いやらしいことオホホ

ああ、十三歳のプアプアはたちまちのうちに神速で

コックの腕に抱きかかえられたままの三十枚の洗い立ての皿と性交を重ねた

………

 という妄想が続くのですが、これらは意識のメタファーでありながら、非常に映像的で情緒に訴えてきます。 

 プアプア詩全体が、妄想を描いたものでありながら、映像的な仕掛けによって印象に残るものとなっています。

 それまでの詩が、言葉の意味によって考え、比喩してきたものが、違う視点から捉えられたといってもいいと思います。 ここでは、言葉に込められた意味を超えるために、映像で示すメタファーが使われていると思うのです。

 

 すでに60年代は、〈平和〉の意味を問い〈豊かさ〉の意味を問い、〈生きること〉が問われていて、それまでの価値観が崩壊し、変革へ向う時代だったのですから、〈言葉で描く意味〉が問われて当然だったかもしれません。

 

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 読んでいただいて、ありがとうございました。続けて鈴木志郎康の詩を読んでいきたいと思います。

 また、月曜日に。