読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

詩作法────自由に構成し発語していい

 おはようございます。

 

 昨日、詩人論から引用したのですが………

フェミニズム精神分析と言語論が文学批評の世界で盛んになり始めた頃、出産と女性のセクシュアリティーを再考する『テリトリー論』で………」などと書かれると………

 素人のぼくは、その前で言葉を失ってしまいます。

 難しいんですよね。

 構えてしまう。

 詩が気楽に楽しむものでなく、なにかを追求した文学、となる。

 自分にとって、理解しなきゃならない、考えなくちゃならない対象物になってしまうのです。詩評を書く方は、そういう捉え方をすることが基本になっているんだろうけれど。

(結果的に考えさせられるのはしかたないけれど………理論が前提にあるのは、どうも)

 詩ってそんなに難解なもので、褒め称えられる、価値あるものだったんだ………と思ってしまうのです。とても自分の考えの及ぶところじゃないや、と。

 

 もっと自由なものと思うのです。

 詩人は、そりゃ難解なものも書くでしょう。いろいろ考えて、また考えこんで言葉を組み立てたりする────

 でもそれは詩人が勝手にやっていること。自由に気ままに、言葉を使ってやっていることです。想像力で自由だから────詩人なんだろう、と思うのです。難しい言葉を使うのも究極は遊びに過ぎないんだ、と。

 

 読者も、文学の彼方に祭り上げられた詩人の詩を、構えて読んでも、あまり楽しくないんでは………と思うのです。これはぼくの勝手な思いですが。

 こう考えればいいんじゃないかな。

 読む方も、気を使わず、自分の力の及ぶところで、自由に解釈して楽しめばいいと────ぼくはそうしたいのです。

 

………………       ………………       ………………

 

 まず、レビューのページにリンクします。

 けっこう、みんな、正直に感想を書いています。自分の印象や考えたことなど。巫女的だともいっています。詩人が発する言葉の強さに感銘を受けたようです。

 

 これで詩を読む準備が整いました。

 

 ………………       ………………       ………………

 よく取り上げられているのが「歪ませないように」です。伊藤比呂美詩集でも一番目の詩になっています。

 その詩についての詩作法を書いてみようか、とも思ったんですが、多くの方が批評されているのでやめます。

『滴り出る詩の紹介』 (伊藤比呂美 『歪ませないように』) - 溢れ出るプライバシー を読んで下さい。

 

 詩集『青梅』から「小田急喜多見駅周辺」を読みたいと思います。

 

小田急線はついも混んでいて立っていく

正午前後に乗る西武池袋線はたいてい座れる都営地下鉄も座れる。

普通乗るのはそういうのである

小田急線の下る方向には大学があるから人が多い。混んだ電車は乗りこむときの感情が嫌いである人を嫌いになりつつ乗りこむ

成城学園で乗りかえる。向かい側にいつも各停が口を開いて停まっている

人を嫌わずに入る。まばらにしか人がいないいつもいない

慣れないのでいつも急行の車輌の前いちばん前に乗ってしまう

急行の車輌のいちばん前と向かい合わせになる場所には各停の車輌がこない。各停は短い

各停のドアまで歩くうちに急行は動き出し成城学園を過ぎて坂を滑りおりていく坂を滑りおりてすぐ停まる

行き過ぎる車外の植物の群生を見ている

木から草になってまた木になる

草の中を野川が横切っていく

車外に植物の群生があふれる

慣れないので各停の車輌のいちばん前にいつも乗ってしまう。改札へ出る階段はホームの中程にある。上がりホームへ渡ったへんで媚びて手を振る

踏切を渡って徒歩10分のアパートの部屋に入る

  •  電車に乗って目的地に行くまでのところが描かれている。
  • 現実の描写や説明に────心理の部分や思い浮かんだことが混じって書かれている。
  • 句点があったりなかったりが、微妙な心理の揺れを表現している。
  • 木が目にとまるのも、生命力のメタファー。

 この行に続いて、

何週間か前に踏切で飛びこみがあった

踏切に木が敷かれてある

木に血が染みていた

線路のくぼみの中に血のかたまりと

臓器のはへんらしいものが残っていた 

 と、書かれてあります。唐突に過去の出来事の死が割り込んできます。日常の中に死が普通に現在形で描かれています。

 ここで一連が終ります。

 二連は、

わたしたちは月経中に性行為した

の1行だけです。

 

 

 三連は性行為の場面です。

アパートの部屋に入るとラジオをつける

わたしは相手の顔にかぶさって

顔すみずみからにきびを搾った

剃りのこした頬のひげを抜いた

背中を向けさせた

………

 で、始まっているのですが、にきびを搾り、背中の粉瘤から脂を搾ることも性の行為とつながっているようです。

 また、

搾るとぬるぬるぬるぬると出た

はでけをかんで引くと抜ける

わたしはつめかみだ

つめがない

つめではけがつかめない

はでやるとかならず抜ける

男の頬がすぐ傍に来るいつもつめたい

 と、書かれている部分は、現実の描写に、作者の心理、及び心の声による説明とでもいうつぶやきが混じってきて、読者を異様な世界に連れて行きます。

 

 ここまで読んでくると、〈混雑→群生→死→性〉とイメージが連鎖しているのがわかります。それぞれが生命力のメタファーなのだ、と思うのです。

 

 四連は散文調で語られます。

荒木経惟の写真たちの中に喜多見駅周辺の写真を見てあこれはわたしが性交する場所だと思って恥ずかしいと感じたのだわたしは25歳の女であるからふつうに性行為する。板橋区から世田谷区まで来る来るとちゅうは性行為を思いださない性欲しない車外を……… 

  性行為を思い出すところと、思い出さない場所ではと草木を見ている、と意識の流れ的散文は続けられ、「性行為を思いだすのはアパートの部屋でラジオをつけた時である」と終わるのです。

 

 五連は、

性行為に当然さがつけ加わった

踏切を渡って駅に出る

もしかしてぬるぬるのままの性器にぱんつをひっぱりあげて肉片の残る喜多見の踏切を渡ったかもしれないのである

水分はあとからあとから湧きでて

ぱんつに染みた

 

 これで詩は終わるのです。

 この詩には、公的なものと私的なもの、全体と個、生命と死などの対立関係が表現されていると思います。

 この詩は、恋人のアパートへの行き帰りと性行為の記憶と思いを描いたものです。主に性行為というモチーフを巡って、私の領域にあること────思い、記憶、イメージなどをパッチワークのように貼り付けたものです。 

 ほとんど小説のようなドラマチックな構成で、いたるところに作者の心理が入り込んでくるのですが、違和感がありません。

 

 詩は、私の空間なんだから自由に描いて、発語していい、と思ったのです。

 

 長い詩の大部分を引用してしまったことをお詫びします。また、ぼくが誤った解釈をしているかもしれないので、それもお詫びします。

 

………………       ………………       ………………

 

 読んでくださって、ありがとうございました。

 では、また。