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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『だれでも詩人になれる本』再読 5

 おはようございます。

 

 2部12章の「へたも詩のうち────たとえ詩人全集にのっていなくても心を直撃する詩はあること」から引用します。

「誰にでもわかるやさしい詩をかこうか」それとも「難解風の高級な詩をかこうか」と悩む方が時々いますが、どっちでもいいのではありませんか。あんまりやさしい詩ばかりかくと詩人の仲間から軽侮されてしまう。たまには知性あふれる、あるいは魂の苦悩のうめきのようなのをかいて世間をギョッとさせたい、というふうに考えるのも、無邪気な発想でありしてほほえましい限りです。

 ひとそれぞれ、好き不好きでおもいおもいに個性の花を咲かせればいいのですが………

………

 詩人の魂を持つひとはもっと寛容の心をもって、「へたも絵のうち、へたも詩のうち」というふうなのがいいのです。たとえ、本人が熱血あふれる革命詩人であったとしてもです。

  言葉の遊戯だけで難解になっている詩もあれば、どうしても伝えたいことが常識を破ったことなので、読む人には難解になる詩もあると思うのです。

 やなせさんは、おおらかに、平明な詩も、難解な詩も受け入れていますね。

 詩の心があればいいではないかと。

 

 現代詩が難解になってきたのも理由があるだろうし、深い意味もあるだろうと思います。そのことも考えなければなりません。

 平明な詩と難解な詩、どちらがいいとかいうことではないと思うのです。ただ、複雑な詩を書く人は、知性的に見えるという、読者の先入観があるのでしょう。

 

  この章では、投稿されてきた無名の人たちの詩が掲載されています。

 

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 P192

 詩の読みすぎは、時として詩人の頭を硬化させてしまう。「こういうのがいい詩だ」というひとつのパターンを頭の中につくりあげてしまい、そこから一歩もでられなくなり、仲間の中ではとにかく、はじめて詩を読む人には何の感動も与えないということが往々にしておこります。

 それならば詩は詩人たちのものか、あるいは詩を批評しあう仲間のものか、あるいはその詩を理解できない人物は阿呆かということになる。

 そをじゃないとおもうなあ。

 花は決して理解できないような咲き方はしない。

 風は決して難解に吹かない。

 夕日の紅さは誰の胸にもしみる。

 詩だけがいばっていていいわけがない。

 詩人はやはり無限の教養をもって、生命がけで小学校一年生と競争しなくちゃいけないとおもう。

  なにがいい詩かは人それぞれですが、世間は評価し区別し、一番を決めたがる。

 また、いい詩を書こうとして、形式や理論を研究することに熱中することになる。

 やなせさんはあくまで、詩を読んだときの感動を重視します。

  詩は、人にとって………花のように………風のように………夕日のように………ありたいものです。そう思ったのです。

 

 また、P199にこう書かれています。

 詩人といえどもエンターテイナーです。

 そんな大変なものではありません。

 だれだっていい気持ちになったほうがいい。

 心の琴線にふれるものがいい。

 詩を読むことによって、ますます、なんだかわからなくなって、読んだひとが自分は知的劣等人間かとかなしくなったりするのはいやだなあ。

 しかもある流派に属していて、その流派の中で、下から順々にあがっていったり、同人誌の中で序列があって、偉い人と初心者と活字の大きさがちがったりするのをみると、どうもぼくには耐えられないという気がする。

 詩人がそんなことしちゃいけない。

 たとえば本当にいい詩というものは、えらい詩人が賞めるものがいいのか、それともえらい人でなければいい詩がつくれないのか。

 そんなことはまったくないのです。

  これは詩の業界の現状を嘆いておられるのだと思うのですが、人間というものは序列を作ったり、比較、区別、差別をしたり、セクトを作ったりするのが宿命のようなのです。やなせさんがいうこともわかりますが、しかたない面もありそうです。そういう面倒なコミニケーションを通じて、やっとわかりあえる地平に達するということもあるので………

 

 でも、たしかに、いい詩というのは、そういう集団での約束事とは無縁のところで生まれるようです。

 

 章の最後 にはいつも詩が載っているのですが、今回は千家元麿の詩です。「単純なことに大げさにおどろいたり感動したりしているところがいいのです。いってみれば、それが純真な魂というものです。」と書かれています。

 

     「飯」  千家元麿

君は知ってゐるか

全力で働いて頭の疲れたあとで飯を食ふ喜びを

赤ん坊が乳を呑む時 涙ぐむやうに

冷たい飯を頬張ると

余りのうまさに自ら笑いが頬を崩し

眼に涙が浮ぶのを知ってゐるか

全身で働いたあとで飯を食ふ喜び

自分は心から感謝する。

 

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  明日で、この本を読むのも最後になります。