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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

『だれでも詩人になれる本』再読 4

  おはようございます。

あなたも詩人 だれでも詩人になれる本

あなたも詩人 だれでも詩人になれる本

 

 を読んでいます。

 第2部では、やなせさんの心に響いた詩人たちを取り上げています。そして、詩についての思いを語っているのです。

 P85にこう書かれています。

 ぼくがここでいいたいのは、本当にいい詩というものは、はなたれ小僧の小学生をも感動させるある種の通俗性をもっているということです。

………

 ぼくのようなものにはよくわかりませんが、芸術的な境地を高級に、さらに高級にと深く高く追求していくと、その一番高いところは、通俗との接点に達するのではありませんか。

………

 中原中也の詩のいくつかにしても、また宮沢賢治にしても、石川啄木にしても、ほとんど文学や詩と関係のない人たちの胸をうつ何かがあって、時にはそれは俗悪と錯覚されやすいのですが、真に最高の作品は通俗とスレスレの境地にあるとぼくには思えます。

 こういう通俗性への理解に全面的に賛成です。媚びてはいないけれど、その根本に大衆性があるということでしょうか。

本当の最高傑作はほとんど誰にでも理解できるはずです。たとえ、口では説明できなくても心の奥深く、何かが素直に激しくよろこぶのです。

 ぼくも詩はその詩句だけの理解にとどまらない、その詩の持っているムードとかリズムとか言葉の調子とか、背景にあるテーマの訴える力などが、読者を酔わせていい気持ちにさせると思うんです。ユーモアもエスプリも不思議も謎々もあると思います、それが心の琴線にふれるのだと思うのです。

 

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 やなせさんは、6章の「児童詩と老人詩と分類していいか────ジャン・コクトオと子供の詩の差」のところで、小学四年生の男の子が書いた詩にジャン・コクトオの名前をつけて載せる、ちょっとしたいたづらをしているんです。それは、その詩がコクトオの名前にも耐えられる傑作だと思ったからだそうです。

 この世界には年齢の差別も、性の差別も、身分も何もない、ただ作品があるだけというのが、ぼくの主張です。

………

 もっともすばらしい芸術は、ある階級や、仲間が独占するものではなく、誰でも解りあえるものではありませんか。まして、それが詩のような、単純な形式のものであればあるほど。

     「シャボン玉」  ジャン・コクトオ

シャボン玉の中へは

庭ははいれません

まわりをくるくる廻っています

          (堀口大學訳)

 

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 9章の「美しい人────無名の詩人・菅野美智子」のところで、やなせさんはこう言っておられます。

「詩の勉強をしたい」という方があります。

 しかし詩は勉強するものですかね。ぼくにはそうはおもえませんよ。

「詩人になりたい」という方があります。

 しかし、詩人はなりたいとおもってなるものですかね。ぼくにはそうは思えません。

 だいいちぼくは詩人ではない。おそらく一生なれないでしょう。

 詩集『白い木馬』で知られるブッシ孝子さんの詩を読まれた人は、たしかにその詩が勉強してかかれたものでもなく、また詩人になりたいとおもってかかれたものでもないことがおわかりとおもいます。おそらく、それは心の中にある、やむにやまれぬ何かがこぼれでたのです。

 (詩集『白い木馬』のサイトです。Google Chromeエンコード、Shift-jis では文字化けしますが、EUC-jp で見ることができます)

    ………………     …………………     ………………

 

  ああ、そう言われると痛い。ぼくのように、詩を書けもせず、「詩を書きたい………」という思いの周りで迷っている者には………

 ズバリ、真実を突きつけられた気がします。

 悲しいかな、もう子どもの純真さを失ってしまったので、だから、詩の書き方を探しまわることになる。

 詩はたしかに、勉強したから書けるものではないのかもしれません。それに先人から学ぶといっても、モノマネに終わってしまい、「仏作って魂入れず」になってしまうのかもしれません。

 

 詩をかくには、他人に何かを伝えたい切実さというか、純粋さが必要なのでしょう。

 

  でも、やなせさんは、

「それでは先生は不要かというと、そうではありませんね。」

 と、書いておられます。

「教育は………テクニックではありません。………詩にしても、絵にしても、まず内なる人間の完成が問題であって、作品はごく自然にあふれでるものです。」

 と書かれているんです。

 

 そして漂泊流浪の種田山頭火や、キリスト者八木重吉日蓮宗の信仰に生きた宮沢賢治など、大いなるものへの没我の境地に浄土を見た詩人たちをあげるのですが………

「自分は俗心が強すぎる」

「ぼくには信仰心もない。これでは駄目でありますね。」

 と、ちゃんと、自分だけ助かろうとしないで、読者と同じレベルに立って慰めの言葉を書かれています。

 

 やなせさんのいう、「詩は勉強して書けるものではない」ということは、わかるのです。

 

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 明日も続きを読みます。