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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「抵抗と表現」を読む 7

 おはようございます。

 いつまでこの本を読むねん! というツッコミが入りそうですが、古いプロレタリア詩を読むことなんてめったにない。それに、詩の歴史を知るのも貴重だと思うし、詩の形式の変化でも興味深いと思うのです。

 もう少し、我慢ください。今週中はこの本を読みます。

 来週から、現代の詩を読むようにします。

 

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 押切順三────全詩集に見る政治詩の構造

「詩人 押切順三」の検索結果です。

  • 詩の方法として、「徹底した客観的手法────対象を細かく描写する」やり方をとった。
  • 敗戦後、民主化運動のなかで政治的な革命の詩が作られていった。押切は、東北の農村の暮らし、あるいは戦争中の経験について、ぼそぼそと呟くような言葉を紡いでいた。
  • 50年代………「山上部落」「台上の村から」「寒駅」「おみなえし」

P141のまとめ

 押切の詩は、主観的な言葉が少なく、淡々と描写が重ねられていくという方法なのだが………政治を扱う場合、常識化してしまうこともある。

「ラーメンについてのノート」はベトナム戦争を扱っているのだが、それをインスタントラーメンをえがいていくことによって浮かびあがらせている。むんむんする暑さのベトナム────そこに送られる辛子のきいたインスタントラーメン────それを食べる韓国兵といった展開になっているこの「ベトナムの韓国兵に」としるされた詩は、やりきれないほど暗い戦争の実体を、じつに深いところでえぐりだしているといえないか。そんなものを異国でむさぼり食う、おそらくはかれ自身が貧しいであろう韓国兵は、しかし同時に狂信的な人殺しにはちがいないのであり、そういった国と支配とのどろまみれのからみあいが、インスタントラーメンというまさに今日的な食べ物を通じて、あざやかにクローズ・アップされているわけだ。(P140)

 

 著者ではなく自分の考えですが────詩を読んだことはないのですが、おそらくベトナム戦争に動員された韓国兵を同情的に描いたものではないかと思えます。それが、反戦のモチーフになるからです。

 ところで、今では、その派遣された韓国兵がベトナムの村人を虐殺し、子供や女性、老人を含め、強姦し、殺した事実が明らかになっています。ベトナムでは韓国兵とのあいだにできた子供はライダイハンと呼ばれ、1万人ぐらいいるのでないか、といわれています。

 

 安易な政治的主張は詩に持ち込むべきではない、と思います。────幻想や妄想に基づいた「現実の美化や理想化」は、詩が探求するものとは違うものです。もちろん、政治至上主義のプロパガンダの詩が、一定の読者に歓迎されるという現実もあるわけですし────現実を歪めた耽美的なものを狙った詩もあります。だからいちがいに、美化や理想化はいけないといっているわけではありません。

「これが正義だ」という方向へ導く政治的な詩は、現実を正確に捉えることは難しい、という前提を持っていなければ、リアリティのない嘘になってしまうということをいいたいのです。

 

「八月六日の朝」(同題の詩が二つあるがここでは六三年のものをさす)は、六〇年八月六日の朝五時から始めて、秋田県湯沢市の市民たちの動きを追っていく。朝日に鳥海山が浮かび、市役所のオルゴールがなり、勤め人は家を出、きょうあすの七夕まつりをめぐる興奮が町をつつんでいき、そして詩は八時一五分にいたる。むろんなにごともおこらない。よく晴れた平和な夏の朝だ。四五年の広島原爆投下と対比させるという、押切にしては珍しい、形式上でも意欲的な構成のこの詩はけっしてアイデア倒れにおわっておらず、湯沢の朝のあまりにあたりまえのことがことこまかにえがきだされればだされるほど、それと次元の違った巨大なもの、論議なしのかぎりない悪が強く印象づけられるのだ。

 

「首のうた」は病気で高熱を出した息子のことをとりあげており、体は大きくなったがまだひよわなその首を見ながら、息子をはげましている詩である。冷静な押切にしては珍しく息せききった調子が全体にあり、これはこの題材からして自然のことだろうが、わたしが気になるのは、この息子の首をかんたんにベトナムに結びつけるその手法である。人間の首のもろさということから、「ベトナムでの人ごろし」が出てくるのだが、なんとも常識的ではないか。目の前の息子の首からとびたつ想像の、自然さ、力強さ、新しさがここでは乏しい。反戦的な人間ならだれでもいえるベトナムのお話におわってしまっている。

 政治詩のむつかしさはこのあたりに露呈しているのだろう。息子の首だけをうたったのでは、いかにも小さいかもしさない。しかしそこにベトナムを結びつけると、またそれとしての型にはまってしまう。

 

 以上、長い引用になりましたが、詩を書くときに、重要な指摘だと思いますので取り上げさせていただきました。

 

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 詩はネットでは見つからなかったので、これで終わりにします。

 本に書かれている詩人をすべて取り上げていくと、後、2日で終わらないので、まとめかたを考えます。

 では、また、明日。