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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「抵抗と表現」を読む

 おはようございます。

 今朝、紹介する本は────

抵抗と表現―社会派の詩人たち

抵抗と表現―社会派の詩人たち

 

 で、1992年に発行されています。いずれも著者が同人誌や雑誌に発表されたものをまとめたものなので、時代も問題意識もバラバラですが、「社会派の詩人」という視点で捉えているのは一貫しています。 

目次

秋山清  (自分のための詩 詩集『白い花』の詩的抵抗)
遠地輝武 (変貌したものはなにか  政治詩人の結末)
壷井繁治  その詩と政治
岡本潤   変わらなかった詩人
倉橋顕吉  おくれてきたプロレタリア詩人
押切順三  全詩集に見る政治詩の構造
伊藤和   逆流する詩人
えのきたかし  執念のリアリズム
中野重治  最初の詩と最後の詩
浜川弥   喪失のリアリズム
松永浩介  大工と革命の間
上村実   文明と速力への抵抗
福永剛   抑圧された人々への共感
清水清   リアリズムの追求
労働と怒りの詩―1920年代の反逆の詩人たち
『次元』―ある文学集団の壊滅
『詩原』―太平洋戦争前夜の詩的共同戦線

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 大正デモクラシーは民衆詩派を生み出しました。

 〈民衆詩派〉を辞書で引くと

1917年(大正6)ころから約10年間詩壇に一地歩を占めていた民主主義詩人一派で,民衆の生活や心を日常語で平易表現した。16年ころから詩壇に庶民的傾向が現れ,18年1月に福田正夫を中心とした雑誌《民衆》創刊されてその傾向をおし進めたが,18年3月ころから民衆派・民主派の名称がこの傾向の一派に与えられ,その後,これらと同義の民衆詩派という名称も流布するようになった。この派の詩人には,福田正夫,白鳥省吾(しろとりせいご),百田宗治(ももたそうじ),富田砕花井上康文花岡謙二らがおり,加藤一夫協力した。

                                               ────と、あります。

 その後、文芸革新の潮流は国際共産主義運動の影響のもとで、〈プロレタリア詩〉を生み出すことになります。

 

 この本はその影響下で詩を書き始め、戦後も詩を書き続けた詩人たちを評論したものです。

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 個々の詩人論は、興味深いものだし読み応えがあります。

 しかし知りたいのは、共産主義というイデオロギーと、表現の関係はどうなのか、ということです。

 昨日は「党派性臭くて嫌だ」といいました。正直な気持ちです。

 革命イデオロギーを絶対として現実を批判する、そういう〈上から目線〉や、自分たちは正義の側、人民の側に立っている、または、弱い者の側に立っているとして、権力を批判するというやり方が露骨に表れているから嫌なのです。

 プロパガンダでしかなくなるからです。

 

 というのは、革命側はしばしば自分の力を使う局面で、硬直した上意下達を下部に強いてきた歴史があるからです。権力志向は、けっきょく非人間性なやり方に行きつく。共産主義は理想でしかなく、けっきょくは独裁政治になる。人がやることだから、しかたないのでしょう。

 

 社会主義リアリズムは、芸術を革命に奉仕するものとした理論です。ウィキペディアを読んで下さい。

 共産主義という幻想が崩壊した今では、その思想も芸術理論も破綻しています。

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 それでも、ビート世代のギンズバーグの社会批判、文明批判、戦後体制批判の「吠える」に出会って、詩を読むことを始めたので────社会的な視点を持って、現実を批判、批評している詩が好きです。

 たぶん美学だけの芸術的な詩、では飽き足らない気持ちがあるのでしょう。

 

 詩なら、本当のことを、書けるのではないかと思うのです。これはたんに思慮が浅い、ことなのか………憧れているだけの、甘えているだけの考えなのか………

 そのために、「詩を書きたい」ブログを始めて、どうしたら詩が書けるのかという問いの答えを探してきました。

 

 

 なぜ、社会的な詩を読みたいか、知りたいのかという、それが、個人的な理由です。

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  この本の「秋山清────自分のための詩」を読んで、学ぶことが多かった。

 政治的なものを上に置くことは、詩を書くという個人的なこととは相容れない、のもわかりました。詩は政治の宣伝のために書くものでないこと。

 

秋山清────自分のための詩」の論考の結論的部分と思えるところを抜き出します。

秋山にとっての自分は、すでにのべたように、社会的、政治思考と離れたところにあったのではない。そういうものと深くかかわりながら、なおかつ詩のなかの自分は、自由でなければならないということであり、また社会的なものを拒絶するところには、ほんとうの自由はありえないということでもあったろう。支配体制、支配権力と基本的に対立する自分、そしてそういう支配体制に反対する側にも同じように存在する権力志向にたいして、同じように基本的に対立する自分────そのような自分を貫きとおすところに、秋山は詩のコースを設定した。自分のための詩とは、反権力的な自由と自律の詩ということになる。

 

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  明日は秋山清が書いた詩「白い花」について、考えます。