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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「石原吉郎のシベリア」から

 

石原吉郎のシベリア

石原吉郎のシベリア

 

 を、読みます。これは、石原吉郎が辿った強制収容所の記録、評伝なのですが、その文学的な経過もわかるようになっています。1957年の今立鉄雄編『日本しんぶん────日本人捕虜に対するソ連の政策』の「第四篇 抑留者の手記」に載っていたという石原吉郎の詩。

   「忘れるものか」

忘れるものか 白樺の

丘のはてから はずれまで

雪にうもれて もの云わず

白い墓標の つづく道

そのちちははも 知らぬ日に

      ────(略)

 と、書いていた詩人が、収容所体験の意味を深めるなかで────

   

   「ゆうやけぐるみのうた」

火をつけた おれ

火をつけたとも

からすは 横着もので

みみずく 不精もので

日ぐれの山みち

セなかいっぱい 火をつけてきた

       ――(略)――

 というような詩を書くように変化してきたのでしょうか。

 

     「その朝サマルカンドでは」

火つけ

いんばい

ひとごろし いちばん

かぞえやすい方から

かぞえて行って

ちょうど 五十八ばんめに

その条項がある

    ――(略)――

  この2篇は同じ57年に「ロシナンテ」発表された詩です。

 

 こうして、詩的出発をした石原は、「位置」(1961)のような、現実の中からその抽象の思想性だけを抜き出したような詩を書き始めるのです。

 

 その変化を詩人の表現の成熟といっていいか。

「位置」の解題については、前にエッセイも紹介しました。つまり、石原がずっと、自分の収容所を生き延びるための姿勢を考え続けていたことです。その考え続けた結論が「姿勢のイメージ」として、詩に定着されたといえます。

 

 また、石原は「ペシミストの勇気について」(1973)というエッセイを書いていて、「鹿野武一という男の存在は私にとってかけがえのないものであった」といっています。鹿野が常に勇気ある姿勢を保持したことが、詩人を収容所という閉塞された状況であれ、人間を、信じるに足ると思える根拠になったのだろう、と想像するのです。

 

 

囚人のあいだでバムは隠語で「屠殺場」と呼ばれ、そこでは、身が持つのはせいぜい五年といわれていた。ひと冬を越したところで、石原の疲労は極限に達した。事実、コロンロ30に移ってから二度入院し、この年の九月、車中ほとんど昏睡状態のままハバロフスクに到着している。石原は病んでいたのである。四九年四月に重労働二十五年の判決を受けてから、やっと一年がたったにすぎない。まだ三十五歳には間があったが、予感としての終焉という想念がこころをかすめた。病んでいた石原はそれを本能的にふりはらった。「この病は死に至らず」(ヨハネ福音書11.4)

  1950年の話です。まだ解放されるまでに3年あります。

 その頃、「海を流れる河」のイメージが浮かんだのです。

………

海よりもさらにとおく

海よりもさらにゆるやかに

河は

海を流れつづけた 

 

 

 P192にこうあります。

 ペシミストにとって、生きることは苦しみにほかならない。石原のいう「ペシミストの勇気」というのは、最終的には死に耐える、死を恐れない、死に直面してたじろがないということにつきるのではないかと思う。その考えに立てば、バムで受刑者の行進のさいに鹿野がすすんで危険な位置を占めたのも理解できる。工事現場でだれもが嫌う仕事を買って出、地面にからだをたたきつけるような仕事ぶりも納得がゆく。こうした鹿野をささえていたのは、この世は生きるに値しない、この世になにごとも期待しないということであろう。

  鹿野はこの時期、他の受刑者とともに清掃と補修作業に狩り出されたことがあったのですが、たまたまそれを見かけたハバロフスクの令嬢がひどく胸を打たれ、すぐさま自宅から食べ物を取り寄せて、一人一人に手渡したことがあった。鹿野も施しを受けた。そして、それから鹿野の絶食が始まる。絶食四日目に、気づいた石原が「今日からおれも絶食する」と告げて作業に出る。が、夕方、収容所にもどった石原はそのまま寝台にひっくり返ってしまった。その夕食時間が過ぎた頃、鹿野がやって来て、めずらしくあたたかな声で食事を一緒にしてくれないかと誘った。ふたりは、がらんとした食堂の片隅で、ほとんど無言のまま食事を終えた。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 そういうエピソードがあるのです。 

 

  今日まで石原へのキリスト教の影響、信仰を見てきたのですが、なによりも人間的な体験(=苛酷で悲惨な)が、石原を信仰の方へ押しやったのではないでしょうか。

 

 と、いうことは、物事は、垂直的には降りてこない、ということです。

 石原はたしかにキリスト教の信仰者ですが、収容所体験を、神の試み=ヨブ記のように読みかえた、そういうことがあったと思います。そこから石原吉郎の詩の世界が始まった、といってもいいと思うんです。

 

 

 また、明日に。