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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

石原吉郎の詩への聖書の影響

 おはようございます。

 月曜日に寝れなくて、いろんなことを考えていたんですが、このブログに引用が多いのが、本を書いた著者の仕事を盗み取ることではないか、と思い、いてもたってもいられず申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 最近、ブログに、本を紹介するのに、引用することが多過ぎる………

 

 著者の方が、苦労し、研究して書いた文章を、引用することでブログを作るのは────剽窃していることと同じだと思います。

 本の、すばらしい内容を紹介したいという思いで、引用するわけですが、それをするのは、長年研究され苦労されて文章に紡いだ著者の人の思いも、思索をも、剽窃しているのだと思います。

 

 今後、なるべく引用で記事を作ることをやめたい、と思っています。

 いままでの記事で不具合がありましたら、コメントなどで指摘していただき、お叱りをもらえれば、記事の削除、訂正をしたいと思っています。いままでの非礼はお許し下さい。

 これからは引用をできるだけ少なくして、本を書かれた著者の研究の成果を、自分の言葉で紹介していきます、そう思っています。重ね重ねご迷惑をかけた本の著者の人にお詫びします。よろしくお願いします。

 

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 そして、今朝は22日の午前中なのですが、明日の記事を書きます。

 読んで、紹介したい本は──── 

石原吉郎 詩文学の核心

石原吉郎 詩文学の核心

 

 です。

 この本は帯にも書かれていたように(図書館から借りてきたので、帯はなく正確ではありませんが)、石原とキリスト教、その出会いと、聖書への理解から、石原の詩を見てみようというものです。

 

 第1章は、「キリスト教との出会い」

  • シェストフ「悲劇の哲学」、北條民雄「いのちの初夜」がきっかけでキリスト教に近づく。 

第2章「石原吉郎と聖書」

第3章「詩文学の核心」

  ●5つの分類方法

  1. 直接、聖書に取材している
  2. エピグラフ
  3. 題名がキリスト教

第4章

 4.文中にキリスト教的用語がある

 5.詩想にキリスト教や聖書の影響がある 

と、目次はなっています。

 

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P53から、石原吉郎がロマ書をどう読み、受け入れていったかの節に書かれている────

………人は、神の前に無にも等しき存在である、にも拘らず神と直接の関係ありとし………

 の、「にも拘らず!」によらなければ、人は義とされ得ない、のだという。

 この論法────Aであるにも拘らず、Bであるということ。それによって止揚されるということ。

 この論法はロマ書にたびたび登場するという。

弁証法神学は危機神学ともいう。バルト、E・トゥルナイゼン、F・ゴーガルテン、ブルトマン、ブルンナー、G・メルツ 1920年プロテスタント神学運動)

P64

「垂直に」

私が『ロマ書』を調べた限りでは、この言葉は、石原が主張するほど頻繁に用いられてはいない。しかし、神の「審判」や「怒り」との関係で、「垂直に」という印象は石原に深く鋭く刻み込まれたことは容易に推察できる。石原の詩の特徴である断定性や垂直性は、多くの詩において顕在化している。

  そして、詩「位置」の分析があります。

しずかな肩には

声だけがならぶのでない

声よりも近く

敵がならぶのだ

     (略)

 

 「声だけがならぶのでない」「敵がならぶのだ」「最もすぐれた姿勢である」という断定が際立つ。また、右や左を否定して、「君」と「無防備の空」や「正午の弓」という垂直性が強調されている。ここに「右」(テーゼ)、「左」(アンチテーゼ)、「空」(アウフヘーベン)という弁証法神学の影響を読み取ることもできる。審判者と被審判者、怒る者と怒られる者との関係は、天地を結ぶ垂直軸の両端にある。

 

 そして「ロマ書」において出てくる言葉は────

時刻

断念

だという。

 石原には詩集『禮節』(1974年)において、「断念」という詩がある。

この日 馬は

蹄鉄を終る

あるいは蹄鉄が馬を。

馬がさらに馬であり

蹄鉄が

もはや蹄鉄であるために

      (略)

 そして、石原吉郎は「断念と詩」というエッセイを書いているそうなのですが、その内容────

  • 詩の出発をしたときには、「位置」という発想があった。 
  • その延長線に「断念」という発想が浮かび上がってきた。
  • 「自由に他の位置を選べない状況は、戦争と強制収容所という状況を通って来た私には、今もなお痛切な問題であり、その痛切さが断念という発想を生んだのだと今にして思うわけです。」

 

 

 明日も、石原吉郎の詩への聖書の影響を、読みます。