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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「石原吉郎 寂滅の人」から、詩「位置」の分析

 おはようございます。

 第四章の「関係 あるいは点」で石原吉郎の詩、「位置」を分析されています。

 

しずかな肩には

声だけがならぶのではない

声よりも近く

敵がならぶのだ

     (一連)

 から始まる有名な詩です。

P106

………しかしイメージの構成としては一点の破綻もないと断言してよいこの短い詩のなかに、石原の関係性としての「位置」が最もよく現れている。「勇敢な 男たちが目指す位置は/その右でも おそらく/そのひだりでもない」。むろん、その上でも下でもないだろう。必要とされたのはたぶん「位置」という言葉の焦点に収斂してゆく明晰で確固としたイメージだけなのだ。だから「無防備の空がついに撓み/正午の弓となる位置」とはいったいどういう「位置」なのか、などと問うことは愚直をとおりこしていっそ野暮というものだ。

と、著者は書き、その理由として

  • 「聖書とことば」というエッセイのなかで、「聖書との邂逅を決定的にしたものは文語調の格調の高さ」であったと、石原が書いていることを指摘している。

「無防備の空」といい「正午の弓」という。「呼吸し」かつ「挨拶せよ」という。あるいはまた「最もすぐれた姿勢」という。けれどもこれらの言葉に微細な意味を読みこんでいくことはあまり意味のないことだ、とわたしにはおもわれる。むしろその「格調」の高い言葉と詩型とリズムによって屹立してくる毅然としたイメージの方向が感受されうるなら、この詩の読まれかたにおいては格別の不服はないのではないかという気がする。いってみればこの詩の美意識それ自体が石原の「位置」をあきらかにしているのであって、「位置」という言葉がなんらかの意味や思想を獲得しているわけではない。(注5)

  この(注5)において著者はこう書いている。

落合東朗は、この「位置」という詩は「コロンナでのペシミスト鹿野をイメージした作品」だと解釈している。「声よりも近く/敵がならぶ」のは、自動小銃を構えた監視兵。「勇敢な男たち」が並ぶのは右でも左でもなく、一列目と五列目だ。「無防備な空がついに撓み/正午の弓となる位置で」は「そうした高まる緊張をあらわしているものと思う」。すぐれた解釈だと思われる(『石原吉郎のシベリア』)

 

 石原吉郎の「位置」についての解説が引用されています。

………私は人間の姿勢ということをかなり考えていた時期があるのです。判決を受けて刑務所へ入った時に、がっくりしていますから、このままでは自分の姿勢を支えることができない、とにかく自分の姿勢を支え直さなければいけない、と本能的に思いました。………その姿勢は、ある意志的な姿勢で、その姿勢をもって、ある位置に立つという考えになっていたのだと思います。(略)

 詩の中の「その右でも おそらく/そのひだりでもない」というのは中間的ということではないわけです。位置そのものという意味です。位置というのは一点で、そこからはずれればもはや位置ではない。

           「位置について」

 

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 長い引用をしてしまいましたが、著者の言葉、落合東朗の言葉、石原吉郎の言葉で、この「位置」という詩の意味がよくわかりました。

  特に作者・石原吉郎が、ずっと自分の姿勢ということを考えていたというところに秘密が隠されていた気がします。その姿勢を保つということが、生きるか死ぬかの重大事であったこと。それが、詩になって後で書かれた時には、銃を持った敵の前に整列する男たちの位置としてイメージされたということ。その男の立つ位置は詩に描かれたように一点のズレもないところでなければならなかったのです。

 詩において、そのイメージが考え抜かれたものであるということがわかります。つまり、言葉では説明できないものを伝えようとして。

 

石原吉郎のシベリア』のP154では、安西均編著「石原吉郎の詩の世界」(1981年 散文館刊)での四人の評者の意見が掲載されています。

A ………味方というものはない。敵同士の挨拶があるだけだ。私がただただ歩兵の散弾をおそれたところに、彼は「勇敢な男たちが目指す位置」を感じて、「最もすぐれた姿勢」をとっていたのだ。私は初めてあの時の位置がわかったように思う。

B 恐らくある人間の銃殺の光景であろう。極限状況のなかで、「人間」の素顔をみつめて生きたものが、最小限の言葉で刻みつけたこの詩には通俗的な感動はない。抑制によって強められた怒りが直接伝わってくる。

C ここは、「じかに不条理な場所」である。勇敢な男たちが人間の声をもっているにしても、それよりも更に直接的な敵───人間性に対する敵であろう───がいて、男たちを条件のなかに捕らえようとする。………いわば限界状況において、男たちは人間性を取戻す。呼吸や挨拶は、人間の最も自発的な行動の表れであり、そこに自由の意味がある。それこそ人間の、最もすぐれた姿勢である、というのだ。

D この詩はイエスの磔刑の場面を扱った詩だと言われたことがあります。

               (いずれも〈略〉して引用しています)

 

と、様々な解釈がされています。また、様々な解釈をさせるほどに、そぎ落とし、言葉が発せられています。まるで、単純に理解されることを拒んでいるようです。それゆえに、詩として屹立している、といっていいのでないでしょうか。

 

 石原吉郎自身はこう言っています。P157

「あとからどんな説明もできるわけですが、その時は直観的にイメージが出て来て、それを言葉にしてしまったので、そのうしろにあることはあまり考えたことはありません」                                                   

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 やはり、詩を書く時にいちばん最初に浮かぶものはイメージなのです。そのイメージが作者の思想や考えや、置かれた状況から浮かんだとしても、言葉で解説できるものは、詩としての面白みがないのではないでしょうか。言葉では説明できないから詩にする、そこから詩を書くことが始まる気がします。

 

 

石原吉郎 寂滅の人」は詩人論となっています。

 詩の成り立ちを知りたいので、明日からは違う本に挑戦します。では、また。