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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「石原吉郎 寂滅の人」(「書き出しの美学」)続き

  前回では、石原吉郎の〈否認〉と〈断定〉は同じであり、共に、自己喪失の危機から生じたものだとわかりました。

 書き出しの分類の続きです。

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「おれ/私」という一人称単数による書き出し

  おれが忘れて来た男は(「耳鳴りのうた」)

  おれが聞いているのは(「岬と木がらし」)

  おれにむかってしずかなとき(「しずかな敵」)

  私が安否を問うのは(「安否」)

  おれは 今日(「いちまいの上衣のうた」)  

  おれが好きだというだけの町で(「本郷肴町」)

  ………

  ………の、22篇。

 著者はこう分析されています。

屹立しない自己はいまだに「おれ」と「私」という、時間も空間もたがえている二重性を生きている。しかしそのことよりも、この書き出しの特徴的なことは、描き始められる以前の世界を持っていないということである。文字どおりここから詩が始まっているとみなすことができる。一、二の例外を除けば、詩の線形はそこから水平に伸びている。

「描き始められる以前の世界を持っていないということである」という言葉がちょっと理解できないのですが………

 ぼくは、かっての出来事、記憶と追憶、を思い出すなかで────「おれ」や「私」というものが出てきているのでないか、と思うのです………「自分はかってどこにいたか、いまはどこにいるのか」ということを問うているのでないでしょうか。ぼくの勝手な読み方でしかないかもしれませんが。

 

一人称複数による書き出しは少ない。

  ぼくらは 高原から(「風と結婚式」)

   われらのうちを(「馬と暴動」)

  ………の、4篇。

二人称・三人称主格による書き出し

   デメトリアーデは死んだが(「デメトリアーデは死んだが」)

   君らを見つめる眼の数は(「その日の使徒たち」)

   ヤンカ・ヨジェフが死んだ日に(「ヤンカ・ヨジェフの朝」)

  アリフは町へ行くんだぞ(「アリフは町へ行ってこい」)

  ………の、28篇。

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接続詞による〈持続〉の書き出し

  だがついに彼は出て行った(「ドア」)

  それから クラリモンド/僕らはいっしょにつまづいたね(「クラリモンド」)

   ………の、4篇。

………いずれにしても〈否定・否認〉による書き出しに較べて、詩に入ってくるまえの世界がより鮮明に示されているように思われる。

 疑問あるいは反語による書き出し

   なんという駅を出発して来たのか(「葬式列車」)

   ヤンカ・ヨジェフが死んだ日に/なぜ燭台を買ったろう(「ヤンカ・ヨジェフの朝」)

   かなしみだろうか それは(「くしゃみと町」)

  駝鳥のような足が/あるいて行く夕暮れがさびしくないか(「夜がやってくる」)

  いつ行きついたのか(「絶壁より」)

  ………

  ………の、26篇。

 

〈命令〉あるいは〈禁止〉による書き出し

  アリフは町へ行くんだぞ(「アリフは町へ行ってこい」)

  自転車にのるクラリモンドよ/目をつぶれ(「自転車にのるクラリモンド」)

  いっぽんのその麦を/すべて過酷な日のための/その証としなさい(「麦」)

  爪よ その/呼吸の高さに立て(「爪よ」)

  この世のものおとへ/耳をかたむけよ(「審判」)

  ………

  ………の、22篇。

 

「────でなければならぬ」という当為

  ワカレネバナラナカッタ オレハ(「サヨウナラトイウタメニ」)

  その指をうしなった指輪は/つぎにうしなうものを/きめなければならぬ(「指輪」)

  花であることでしか/拮抗できない外部というものが/なければならぬ(「花であること」)

  ………の、9篇。

 

名詞止めによる書き出し

  火つけ(「その朝サマルカンドでは」)

  火をつけた おれ(「ゆうやけぐるみのうた」)

  そこからが膝であるく土地(「土地」)

   この街の栄光の出口(「卑怯者のマーチ」)

   そこが河口(「河」)

  ………の、12篇。

だがすべての書き出しの定型のなかで、もっとも重要だと思われる定型は、場面・状況・事実の提示・措定・言表によるものである。それも一文あるいは一行のなかに一息で言い切ってしまう措定と、数行にわたって緩い息で述べられる措定とがある。

 

一文あるいは一行による書き出し

  条件を出す(「条件」)

  かなしみだろうか それは(「くしゃみと町」)

   いつ行きついたのか(「絶壁より」)

   生涯というものではなかった(「生涯1」)

   寝がえりはどこから打つ(「寝がえり1」)

   ………

  ………の、21篇。

 

数行に分かち書きされてはいるが、ほとんど一息による書き出し

  打ったのは/おれの義手だ(「義手」)

  終りからひとつ手前を/削ぎ落とす(「竹の槍」)

  沈黙は詩へわたす/橋のながさだ(「橋1」)

  非礼であると承知のまま/地に直立した/一本の幹だ(「非礼」)

  みれもとにあって 水は/まさにそのかたちに集約する(「水準原点」)

  ………

  ………の、20篇。

 

 著者はこう分析します。

  • これらの否定・時間・接続・疑問・主語・命令・禁止・当為は、書き出しだけに見られる特徴ではない。詩の本体のいたるところにある。
  • 断定にしろ、接続にしろ、疑問にしろこの個々の形式の意味が大切なのではなく、それらをすべて包み込んでいる〈かたち〉が重要なのだ。
  • 持続された思念が一瞬にして弾けた、その瞬間の磁場の紋様(形式)をさしているにすぎないからである。

 

 そして、「右・左」への固執

 ここでは多くの詩が引用されています。

 

「────するまま」という言いまわしへの固執

 この「────まま」という表現で書かれた詩が多いのです。多くの詩が引用されています。

 

「書き出し」の美学のほかに、石原の詩をより石原的に屹立させる効果を生みだしているのは、かれが偏愛する修飾語の多用である。試みにその偏愛度ベスト・テンを、全三八四篇の詩に登場する頻度によって一位から順番にあげてみると、およそつぎのようになる。

  1. さらに 43回
  2. ついに 37回
  3. まま(に) 26回
  4. しずかに(な) たとえば 25回
  5. ふいに はるかに(な) 21回 

………後は本で確認してください。

 そして、多用される副詞についても分析されています。P242。

 これらの副詞と前述の諸形式の「異化結合」によって、石原吉郎の詩は光彩を放っている。

………ある種特定の単独のことばじたいにたいする嗜好が強い。寂寞、失語、肩、姿勢、単独、海、森、垂直、倫理、位置、斧、薄明、荒廃………。けれども石原の言葉にたいする美意識は、これらの言葉と言葉、一行と一行、形式と形式のあいだの「異化結合」された〈かたち〉にある、といいきってよい。

 

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 石原吉郎の詩を、ここまで細かくデータ分析した論評はいままでなかったのではないでしょうか。わくわくする、すばらしい衝撃でした。石原吉郎のこだわりや、心理的トラウマからそうせざるを得なかった、表現の形式に気づかされたからです。

(長い引用をさせていただきました。すみません。どうしてもブログで紹介したかったので………)

 

 石原吉郎の詩は、ひとつの場面(シーン)が緊張をはらんだ=暗示された、隠喩なのだと思います。それは読者に、過酷な収容所の現実を想像させ、突きつけてくるからですが、ほとんど抽象的にみえるほどの反語の形にならざるを得なかった現実が隠されているからなのだ、と思います。

 

………言葉の〈かたち〉とは石原吉郎という存在性の〈関係性〉そのものである。

  この著者の言葉がいちばん納得できました。石原吉郎が嘗めなければならなかった過酷な現実とどう関わったかというところから、その詩が生まれて来たのだと。

 

 

  今週は、石原吉郎の詩を読みたいと思います。また、明日。