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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「石原吉郎 寂滅の人」を読みます(「書き出しの美学」)

 おはようございます。

 ブログを書いていない………

「詩をどう書くのか」をテーマにして………なんとか、続けたいのです。

 なぜこんな文章を書いているのかというと………現代詩の原点のところを知りたくて、「詩の構造についての覚え書」(入沢康夫 思潮社2002)という本を借りてきていたのですが(1966年、67年に「現代詩手帖」書かれた詩論の改訂版)………これが、読むと、ややこしくて────当時のテクスト論とか記号学の影響のもとに書かれたものだと思われます────頭が混乱するので、これをまとめるのは大変だな、と思っていて、嫌になっていたのです。

 後に、「詩的関係についての覚え書」という詩論を書かれて、「詩の構造についての………」は否定されているようですが………

 こういう学問的な詩論で、詩を書く現場を混乱に導くことはかんべんして欲しいというのが、偽らざる感想ですが、その思いに反論される人は多いのでしょう。

 詩が権威であったり、専門家しか書けないものであったり、難解で、一般の人が理解できないことが知的であると誤解していたりするのには反対です。

 

 じつは、府立図書館から、「入沢康夫の詩の世界」という入沢康夫論や、岩成達也「詩の方へ」という、現在、現代詩手帖で活躍されている詩人たちの詩論とか評論の本を借りてきているので、また、読んだ感想を書くかもしれません。

 多分、感想を書かないで終わる可能性も大です。

 

 詩とはなんなのか、という問に対する答えは様々でしょうが………ロマン的なものから現代的な詩論での定義まで。

 

 ぼくは、ただ、自分が楽に自然に、気持よく詩を書きたいだけなのです。そして、それが共感してもらえるものなら、いい。

 それをめざしてヒントを探しまくります。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 と、愚痴を言ったところで………今朝の本を紹介します。

 しばらく、ぼくがいちばん好きな石原吉郎を読みます。彼の詩、は、どこから、どういう発想で書かれたのか、それをわかりたいので。

石原吉郎 (飢餓陣営叢書)

石原吉郎 (飢餓陣営叢書)

 

  この本の終わりに「書き出しの美学────〈かたち〉への凝縮」という論考があります。これがおもしろい。石原吉郎の詩の〈かたち〉=形式へのこだわりを分析したものです。考えさせられ、気づかされる。

………それは書き出しの形式であり、展開の形式であり、終わりかたの形式である。べつの意味でいえば、語法の形式であり、反復の形式であり、重畳の形式である。

 この形式を詩の「書き出し」部分からできるかぎり類型化して抽出してみる。「書き出し」の形式をとりあげる理由は、書き出しの一行ないしは数行に、石原吉郎の詩への撓められた力が最も凝集していると考えられるからである。

  著者は『石原吉郎全集』第一巻「全詩集」の384の詩の書き出しを分類しています。

 

「────ではない」という否定辞で代表される〈否定・否認〉による書き出し

   しずかな肩には/声だけがならぶのでない(「位置」) 

  なんという駅を出発して来たのか/もう誰もおぼえていない(「葬式列車」)

   霧のある夜がとりわけて/自由だとはいわぬ(「霧と町」)

  酒がのみたい夜は/酒だけではない(「酒がのみたい夜」)

   私が安否を問うのは/安否を問う町への/道のりのゆえではない(「安否」)

   生涯というものではなかった(「生涯1」)

  ………

  ………と、22篇。

 これらはとりつく島のない否定というよりも、冷たい炎のように静かな否定である。………記憶と追憶のなかでのいわば想像上の否定のようにみえる。………

 だがいずれにせよ、いきなりの否定ないし否認によって詩に入っていくとき、否定によってしか係ることのできない石原の、獲得している(もしくは喪失している)世界性の特質が表面化していると考えられる。書き出される以前の世界はできるかぎり肯定され受諾されようとしているにちがいないのだが、一行が書き出される寸前に、見えない「だが」や「しかし」や「けれども」や「にもかかわらず」によってひっくりかえされ、一行の開始とともに一挙に自在性が顕になっている。世界を承認することは自己の喪失不安に繋がるとでもいうように。

  この引用を読んでいて思ったことは、詩の始めの一行が書かれる前に、すでに事件が起こっているのだ、ということです。この分析によって、石原吉郎の詩の本質に気づかされました。

 詩が始まる前に、何事かが起こっていることは、6月24日の「詩の起承転結────〈波〉(荒川洋治)」 でも確認したことです。

 石原吉郎の場合、その事件の現場にいることが耐えられない、自己を喪失してしまうような苦痛のために────否認から入るという形式を取らざるを得なかったのだと思います。

 

「────とき」という、ある一瞬、時刻、時日、時期、季節、すなわち時間意識をさし示すことによる書き出し

  そのとき 銃声がきこえ(「脱走」)   

  そのとき君は斧の刃に/もたれていた(「コーカサスの商業」)

  ヤンカ・ヨジェフが死んだ日に(「ヤンカ・ヨジェフの朝」)

   酒がのみたい夜は(「酒がのみたい夜」)

   もはや夕暮れでないと気づいたとき(「野盗」)

   おれにむかってしずかなとき(「しずかな敵」)

  ………

  ………の、39篇。

………現実のある特定の一瞬、一日、時間であるよりも、ある不分明な時間に凝縮されてゆく意識、あるいはその凝縮された時間が一瞬にして弾ける意識だけが示されているようにみえる。

 

 「────は────だ」という言い切り、〈断定〉による書き出し

  わかったな それが/納得したということだ (「納得」)

   そこにあるものは/そこにそうして/あるものだ(「事実」)

   憎むとは 待つことだ(「待つ」)

   打ったのは/おれの義手だ(「義手」)

   正確に名づけよう それは/いっぽんの笞を走る/ひとすじの火だ(「定義」)

   悲しみはかたい物質だ(「物質」)

   ………

  ………の、30篇。

 著者はこう分析しています。

 この断定の主語が、たとえば「それ」であり、「そこにあるもの」であり、「憎む」ことであり、「悲しみ」であり、「愛すること」であり、「沈黙」であり、「夜明け」であり、「落日」であり、「詩」であり、「風」であり、あまいは「おれの背後」であったりすることは、石原にとって断定されるべき対象がどこにあるかを正確に語っている。「風がながれるのは/輪郭をのぞむからだ」というときの「風」も「輪郭」もけっして暗喩ではない。そのまま素直に受けとめられることが望まれている。主語と述語の断定をめぐる屈折のイメージだけが重要なのであって、その断定じたいが正しいか否かということはまったく問題にならない。

 この断定の強さが石原吉郎の詩を、詩にならしめている、とぼくは思います。

 著者は続けてこう分析します。

 最初に触れた〈否定〉の書き出しはこの〈断定〉の裏側に位置しているが、いうまでもなく〈否定〉は〈否定の断定〉という形式において〈断定〉と同じ位相にある。ベクトルが逆なだけだ。言い切ることによって石原が獲得するのは詩のかたちである。つまり自分という存在性のかたちである。

 

 石原吉郎の詩が、「断定する強さ」によって詩としてあり、それが、事実の「否認」と、意味が同じで違わないなら、ぼくら読者はどうしても、石原吉郎を追い詰めていった収容所の過酷な現実に思いをはせることになります。詩人によってそこに連れて行かれます。

 

 石原吉郎の「かたち」を分析する文章はまだ続きますが、長くなったので一旦、切ります。続きは21日に。来週は石原吉郎の本、3冊を読みます。

 では、また。………ありがとう。