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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

村野四郎の詩に関する言葉

  おはようございます。 

飢えた孔雀―父、村野四郎

飢えた孔雀―父、村野四郎

 

 という村野四郎の伝記を読みました。息子さんが書いたもので、四郎の生い立ちの聞き書きと、家庭での様子、詩人たちとの交友、村野四郎が折にふれて書いたエッセイが引用されて仕上がっています。

 どんな人だったかが、すごくわかります。

 お酒を飲まなかったので、誠実な人柄だったようです。サラリーマンとしても実直で、理研の前身の会社の常務までなったとか。若い頃はスポーツマンで、多趣味だった。おおらかな奥さんと子どもたちを愛し、家庭人としても幸せだったようです。

  村野四郎のその時々の詩集からの詩も載っています。全体像がわかる仕組みになっています。すごくいい。

 

 この本で、村野四郎が、詩に関して発言しているエッセイから引用します。詩への考え・姿勢がわかると思うので。

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   「私におけるリルケ」冒頭部分   P48

 私がリルケにとらわれてから、もう三十年ちかくになる。昭和の初期、シウルレアリズムを中心にする文学運動に身を投じて、新しい詩的経験を血眼になって追いかけていたが、心のどこかでは単に審美的な流行を超えた、もっと落ち着いた精神の拠り処を求めていた。私が笹沢美明らと新即物主義の運動をおこしたのはその前後のことで、ケストナーブレヒト、リンゲルナッツなどの作品や即物主義文学論に熱中して、その理念を追求しているうちに、事物性の理想化或は哲学的な情熱の原型として、その根源的な姿を大きく私たちの前に現してきたのはこの文学の先駆者リルケであった。

 即物主義は作品的には様々な形式に分化していったが、その根本的な理念は、事物に対する一種の愛、偉大なものに対する新しい帰依或は新しい畏敬であるが、それがすでにリルケの理念と作品の中に典型的に示されているのをつよく知らされたのであった。………

と、リルケを敬愛していることを証ています。 これは一生変わらなかったようです。

 村野四郎を詩の世界に導いた、衝撃を与えたのは萩原朔太郎でした。

 1923年(大正12年)萩原朔太郎の第二詩集「青猫」が発表され、これを読んで四郎はショックを受けました。四郎21歳、朔太郎36歳の時です。

  そして、その後………P74

 一九二七年(昭和2年)慶応卒業。同年秋、近衛歩兵第一連隊に入隊しました。二五歳でした。………

 この一年志願兵時代に、四郎に重大な影響を与えた人物に出会います。坂倉準三氏です。四郎と同じ一九〇一年生まれで、東京美術史学科卒、一緒にこの一年志願兵を終えると二九年渡仏、ル・コルビジュの門に入り、37年パリ万国博覧会日本館の設計で国際的に認められた人です。………

 これ以後、四郎の詩が変わったように見えます。自分の胸の内に描きだす詩的美空間をより意図的に組み立ててゆくようになったと思います。より視覚的に、より構成的になった感じがします。四郎の言葉でいうと、「イメージの形態性という空間的命題」を追求してゆくようになります。

 四郎が春山行夫のすすめに従って、新詩精神運動に加わったのは、一九三〇年といっていますが、それより前、その源流たるル・コルビジュのエスプリ・ヌーボーに引き合わせたのは坂倉準三氏ではなかったかと思われるのです。

  39年の第二詩集「体操詩集」刊行………32年頃からいくつかの詩誌に寄稿していたものからスボーツを題材にしたものを選んだもの。

    「飛込(1)」

花のように雲たちの衣裳が開く

水の反射が

あなたの裸体に縞をつける

あなたは遂に飛びだした

筋肉の翅で

日に焦げた小さい蜂よ

あなたは花に向かって落ち

つき刺さるようにもぐりこんだ

        ────(略)

 

 四郎は、「私は、この体操詩集によって、肉体と精神の美しい交叉点を、詩の造形の中に現わそう とした。そして、この輝く交叉点によって支えられている人間の新しい姿を、描きだしてみようとした。これはノイエ・ザッハリッヒカイトの理念的根底をなす存在論的な視方の、美学への実験だった」「これらは即物主義の非感傷的精神風土の中から生まれた作品である。だから、ここでは一切の抒情的想像を排して、冷静なカメラ・アイによるように、物そのものがとらえられている。そして、その表現としては、すべての言葉が合目的に、直線的な意味で組み立てられている」と書いています。  (P97)

 「新即物主義」のこれ以上の解説はないでしょう。

 

 また、村野四郎はアメリカの詩人ウイリアム・カーロス・ウイリアムズを敬愛していたようです。P125の「ウイリアムズの署名」というエッセイから引用します。

 

………こういう彼の思考の根底には「物が思想に先行する」という堅い信念が設定されており、エリオットのように総括的な観念から詩が生みだされるという思考方向(エリオットの地下工作物なるもの)に全く対立するものが不動なものとして横たわっていたとみるべきだ。

 それゆえ彼は、いつも眼前の生活的現実の中から、即物的に事物を取り上げ、しかもそれにイギリス語に退廃しないアメリカ語によって詩的表現を与えようとした。彼はまた、次のようにも言っている。

「詩人というものは、彼が題材とするものの関係において発見されうる思想の領域を超えて、それ以上のものを求めようとはしないものだ。つまり個々の物の中以外に思想はないということである。詩人は彼の詩で思考する。そこに思想は存在するのです。そのこと自体が深みなのだ」

「機械にはセンチメンタルなものは何もない。そして一篇の詩も小さな(あるいは大きな)言葉で出来た機械である。私が、詩には何のセンチメンタルなところがないというのは、他の機械と同じように、どんな余分な部分もありえないという意味なのだ。………その運動は内在的であり、起伏があり、文学的性格よりも物理的性格のほうが多い」

  こういう他の詩人の詩論とも比べて、自分の詩への考え方を検証し、研究して、表現の仕方を練り上げていく────その態度に感服します。

 

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 そして、晩年には、芭蕉に近づいていったようです。 

 

「永遠なる芭蕉」(「鶏肋断想」所収)というエッセイで────

 私が 「体操詩集」を出したのは、もう二十年以上も前のことだが、………

   「体操」

僕には愛がない

僕は権力を持たぬ

僕は白い襯衣の中の個だ

僕は解体し、構成する

地平線がきて僕に交叉る

      ────(略)

 

 この詩は、思想的にも、形式的にもドイツのノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の実験のつもりで、当時結構気負って書かれたものであった。………

これからの詩人は、メソメソしなくても叙情できる、といった革新的な気持で、ひとりで張切っていたものだ。

 ところが戦後になって、やっと自分の足元を見る余裕ができ、たまたま芭蕉の俳文「笈の小文」をよんで、今までの若気の自負を、いっぺんに根こそぎひっくり返されてしまった。まるで冷水を浴びせられたようであった。………

 と、書いています。

 

歌でも句でも同じことだが、たとえば蕪村のように、いかに巧みに感覚的イメージを駆って情景を髣髴させようと、その芸術的次元は知れたものである。そうした境を去って、さらに高度のレアリテを創ろうとすれば、イメージそのものが、単なる感覚的かることをやめなければならないだろう。

 そしてそのイメージは、感覚的任務を果たすと同時に、作者の内面(思想)の暗喩とならなければならない。その点で、比喩の名人であったリルケが、「詩は畢竟、Erfahrung(経験)だいった意味がよくわかってくるのである。

 また、そうしたイメージでないと、後々まで読者の心をどよもしてやまないといった高次元の詩は生まれてこないように思われる。

 芭蕉の句が、何気なく扱った現実に、ふしぎに心の引っかかるのを感じさせられるのは、おそらくこのためであろう。彼の句にある、あの一種のどよめきは、このイメージの質にあるのではないかと思われる。

 

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 村野四郎の詩を紹介できませんでしたが、その詩法、考え方がよくわかる部分を引用しました。長くなってすみません。生涯、その詩への考えを深めていっていたのですね。

「村野四郎詩集」を借りてきていますので、明日は、それを紹介したいと思います。