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  66歳 日の記し /          ☆。(´・ω・`)/ 。゜★・ ☆彡

社会の底辺で生きて来て55歳で世間と断絶を決心してから独りです。寂しいのでブログを始めました。思うことなどを書きます……仏教を生きる指針にしているのでそれも。リンクを貼らせていただくサイトの方には感謝しています。m(_ _)m

「金子光晴の詩法の変遷」

 おはようございます。

 いま、大阪は小雨ですが、今晩(10日、木曜)には台風8号が接近しそうです。各地で、雨の被害が出て大変です。御無事で。

 

 UPするのは明日になりますが、この本を読みます。 

金子光晴の詩法の変遷―その契機と軌跡 (比較社会文化叢書 20)

金子光晴の詩法の変遷―その契機と軌跡 (比較社会文化叢書 20)

 

  後書きによると、著者は中国人留学生として日本に来ていて、博士論文として提出した文章を改稿したもの。現在は福岡大学の非常勤講師らしい。日本語を使いこなすだけでも難しいのに………労作です。

目次です。

第一部 初期における詩風の転回と行き詰り(大正五年~大正十五年)
  第一章 『赤土の家』から『こがね蟲』へ────フランス詩の受容
  第二章 『こがね蟲』と詩誌「日本詩人」「楽園」の時代
  第三章 『水の流浪』と大正末期の感性
第二部 海外流浪の時期にみられる新たな詩語とテーマの発見(昭和初年~昭和十年)
  第四章 〈下降〉の契機────上海体験と詩語に見られる変化
  第五章 〈混血女〉の出現────東南アジア体験及び「南方詩集」
第三部 戦時・戦後の詩作の問題
  第六章 神話化される詩人の戦中と戦後の模索

 

 詩集を中心に分析して、詩法・表現がどう変化したか、解き明かしています。

 

  第一部は────

  • 流行していた民衆詩派の影響(口語自由詩 端的 単純 自然 健康的………)
  • 大正の終わり頃、台頭してきた芸術派
  • 金子がベルギーで学んだロマン主義高踏派(ヴェルハーレン)、象徴主義の詩法

  深く興味を惹かれたのは第二章の2に「〈ライン〉へのこだわり」で論考されている項。

「詩誌『楽園』に見られる詩形の模索」では金子の言葉が引用され、何を狙って「ライン」を強調したか、どうスタイルを考えていたか、を分析されています。

 また脚韻にも注目しています。U音、A音の反復。

 2行、3行、4行という詩形。

 

「こがね蟲」の解説。P69

 このことからも、金子が西洋の「石と鉄の文明」に触発されて、失われつつある「紙と竹と土の文化の幻想的な美しさ」を捜し求めようとしたことがわかるのである。「こがね蟲」に見られる構築された美の殿堂にはヨーロッパの「壮麗で、神秘な金碧燦爛の世界」の影がないわけではない。しかし、金子が徹底して憧憬したのは「乾山や、光琳や、北斎や、広重や、清長の、美の世界」だったのである。

  •  ここでは、漢字・漢語の効果を利用している。
  • 色彩 絵画的

 第三章 P86

 散文詩の制作に詩人たちが意識的になったのは、大正末期から昭和初期にかけてである。北川冬彦安西冬衛らの詩誌「亜」を経て、モダニズムの詩人らが集結した「詩と詩論」は〈新散文詩〉を提唱し、その紙面には散文スタイルの詩を多く載せている。北川冬彦の「定型詩の形骸を背負ったまま、自由詩は堕落して行った。そして遂に『民衆詩』にまで来た」という認識が示すように、平明さと社会性を優先させるあまり詩精神を滅ぼした「民衆詩派」に抗議して、より純粋な詩的創造を目指す姿勢がその背景にはあった。自由詩に行き詰まりう感じた詩人たちが、新たな形式を模索し始めたのである。

 という時代の流れがあったのです。

「水の流浪」という詩集には、

  • 観察者としての「私」の視点
  • 外界あるいは「もの」が内面に侵入してきた衝撃がある
  • 視線が遠景からだんだんと近くなり、目標物をズームインするような展開が多い
  • モチーフが生活の物

  同時代の大正末期に書かれて時代の象徴となったものに、梶井基次郎の「檸檬」があるが、金子の作品も同じような目線で書かれている。

 

  • 詩人の詩法の変化というのは────時代の風潮と、自身が「どういう視点を手に入れるのか」ということが原因になっていると思う。

第四章以降を読んだまとめと感想を、箇条書きにします。

1920年代の上海体験】

  • 西欧列強に植民地化された上海での体験がなければ、金子光晴の詩法の飛躍はなかった。当時、多くの作家、ジャーナリストが上海を描いているが、金子のように「放浪者」としてではなかった。
  • 「鱶沈む」(1927年) 混沌と汚濁の様相が描かれている。

 「上海を俺の棺に」(1928年)と唄った金子は、上海にあって生きる感覚を確かめることにかかりきりで、わき目をふる余裕はなかった。1920年代の上海の時局に関心がなかったわけではないが、それよりも、あたう限りの低い視線で、〈沈み〉ながらと、大渦の中に生きる名もない人々を描くことに集中したのである。もちろん、この上海から始まる長旅の末、金子は日本帝国主義のからくりを見抜き、やがて「鮫」をはじめとする幾つもの詩篇を書いて、「日本」への批判を強め始める。それが彼にできたのは、彼が際者から一近代知識人として俯瞰的な見方で世の中を捉えようとするのではなく、

社会の最底辺に身を置き、いわば実存的な視点から個々の人間を見据える方法を上海で体得したからだと言えるのである。

  著者は、詩「鱶沈む」の描写を、連、行ごとに詳しく分析している。

 ここでテーマになっているのは〈下降〉である。

  • 色彩はなくなり、鈍く、暗く、光はなく沈んでいく。水は濁流である。
  • 不潔、生理、死………

金子は、「芸術」は「活写なり」とし、「活写とは、そのものに深入りすることによってのみ得られる」(「ある序曲」自作解説 1956年第11巻P295)と述べている。

 

 【〈混血女〉の出現────】

  • 1930年代の東南アジア体験がもたらした最大のものは、〈混血女〉という新しい女性像を得たこと。

    「おでこのマレー女」(1941年)

君は舐める。

 

トワンがうました

君の嬰児を。

 

地球は二つに割れた。

トワンはその向こうにいる。

      (略)

  詩人はマレーの女が混血児である赤坊をあやす動作を、単調な「舐める」という動作で描写している。「舐める」という動作は生理的で、生々しい表現であるが、ここでは微笑ましい愛情表現として現れている。

 

  • 金子は自らを植民地の混血娘の存在と繋ぐことで自己を対象化している。そして、その対象化された自己を見るように、底辺にさまよう人々を見るのである。

 

 …………………………………………………………………………………………………………………………………

 戦後の金子の活動は、多くのひとが見るように、抵抗詩人・反戦詩人として取り上げられたことから始まります。

 この本でも、第三部で、戦中・戦後の詩が引用されて、分析されているのですが………社会的な評価がどう確定したかは、金子光晴と検索すると、見つけることができます。

 それで、三部をまとめたりするのはまた、機会があるでしょう。

 この本は、詳しく、金子光晴の詩の軌跡を辿っています。

 

 焦点がまとまらないまま、本を紹介したので、ぼんやりしたものになってしまいました。すみません。

 

 また、明日に。